ケーススタディ


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収容型医療より地域医療へ




鳥海山 2013年6月3日

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 先月神奈川県精神科診療所協会の総会に久しぶりに出席しました。そこで、ある先生が、21世紀に精神科の外来の9割はクリニックで診察するようになるだろうと話され、日頃感じていたことを明快に表現されたと思いました。

 私の開業したのは10年前ですが、果して食べていけるかどうかもわからないまま、清水の舞台から飛び下りるつもりで始めたのが、つい昨日のようです。精神科のクリニックは、この10年の間に藤沢駅の南口と北口だけで、それまでの0が私を含めて4ヶ所になり、日本全体としては1325と推測されています。年々増加率が高くなっているので、全国の精神科病院数1672に迫り、21世紀には逆転するのは間違いないと思います。

 私のいた大学の精神科には拡大医師会議という組織があって年一回の研究合宿をしたりしています。私はその幹事をしていますが、10年前は、クリニックの開業医はわずか3人ヽ9割以上は大学、病院にいました。現在はこの会議のメンバーで開業医は、若い人を中心に急増していて、30人に迫ろうとしています。大学、病院に残る人が次第に少なくなってきているのは全国的な傾向です。

 今後10年間に精神科クリニックは倍増すると思われますが、精神科の有病率から推定すると、それでもまだ足らないでしょう。最近の精神科の有病率で、昔と変わらないのは、統合失調症圈の1%というのが定説となっています。気分障害圈(双極性障害、うつ病を含む)は、かって0.5%といわれていたのが、現在5%とみられ、神経症圈は、従来2 - 4 %といわれていたのが、外来受診統計からみて気分障害圈と同じ位と思われます。

(資料1、2)その他を含め生涯発病率は、イギリスと同じく、8人に1人、すなわち12.5%を越えているのは間違いないところでしょう。アメリカは20%といわれていますので、それに近いかもしれません。(東京精神医療人権センターで確認)


 乱暴な推計ですが、統合失調症圈をもとにして考えますと生涯1~数回の発病後自然治癒し、その後医療を要しないひとが1/3、いわゆる寛解状態で、再発の可能性があるが、治療終了ないし小量服薬で予防中が1/3、目下精神症状を伴い発病のため治療中が1/3として、人生30-80年のうち、30-40歳で発病し、半生を治療継続と仮定しますと、人口37万の藤沢市では、生涯発病率12.5%として、生涯発病者46250人の1/6=7700人が、目下治療中と推測されます。最近は気分障害圈患者も統合失調症圈患者も、病状消失後少量の投薬で予防治療するほうが再発が少ないことが実証されていますので、外来通院患者数はもっと増える可能性があります。

 神奈川県の人口1万対病床数は平成3年度18.6、これに対し、藤沢市の精神科病床数は2精神科病院620床、総合病院はほぼ0床であり、人口1万対病床数は16.8で、県平均より少し低い値です。精神科病院のマンパワーで入院、外来合わせて2000名をみるとしても、残りの6000名弱はクリニックの外来で治療する必要があります。私見では、経営がなりたち、診察するほうも、されるほうも納得のいく適正患者数は、現在の保険制度では、精神科クリニックの医師1名あたり300~400名前後でしょう。これをこすと治療の質の低下をきたす可能性があります。

 とすると、現在は9ケ所ですが、藤沢市内のみで、14~19の精神科クリニックが必要なことになります。このように外来診療のニーズが20年前に比べ急増しながらも医療体制が追いついていかないのが実情です。統合失調症圏の発病率は変わらないとしても、近年のストレス社会で、気分障害圈、神経症圏等の発病者が外来通院者として急増する一方、10年はど前までは収容型医療を拒否して、家の中でじっと過ごしてきた本人、家族が始めはオズオズと、今はかなり平気に精神科クリニックのドアを叩きはじめたというのが最近の私の実感です。

 以上前書きが長くなりましたが、精神科医療の現場で一体何が起きているかを、自分の体験をふまえて述べて見たいと思います。

-1-収容型医療の時代(1960年代まで)

 20数年前、私が精神科を志した時は、精神科の治療は100%近く、大学病院と精神科病院で行われていました。当時は入院治療が主流で、本人の意思を無視した強制入院がいとも安易に行われ、治療も電気けいれん療法が盛んでした。(そういう、私自身、さして抵抗を感じず往診し、強制入院させていましたし、先輩の指導を受けながら、電気けいれん療法をやったものです。しかし、この療法が長期的にみてよかった例は1例もなく、2度とやりたいとは思いません。)

資料
(1)山下務、精神医学ハンドブック p68、p88 日本評論社(1996)

(2)大熊輝雄、現代臨床精神医学 p281 金原出版(1996)

 私か勤務した東京の大精神科病院では、両端に入口と出口があって、横に細長く、廊下側に窓が横一列に並んでいる奇妙な部屋があって、ウナギ小屋と呼ばれていました。

 不思議に思って、長く入院している人に聞いてみると、その部屋では横一列に並ばされて次々に電気ショックを受けさせられて恐かったとのこと、古くからいる職員に聞いてみてもその通りで部屋の構造が納得できたものです。

 この病院は、良心的精神科病院として昭和30年代初期に建てられ、厚生省指導による模範的施設として作られたという5病棟と呼ばれた、動物園の檻そっくりの保護病棟がありました。両上下肢の肘、膝及び股関節が胎児姿勢のまま拘縮している20余年入院しているという裸のひともいました。拘縮した姿勢ながら非常に敏捷で、同僚の熱心な主治医が散歩に連れだそうとして、噛みつかれたりしていました。

 私の勤務した閉鎖病棟は、経済措置といって、家族が入院費用を出せない(或は出さない)ため、外出禁止の必要もないのに長年月の間一切の外出を禁止され、拘束されていた人が10人近くいたでしょうか。ケース・ワーカーや看護者と相談して、「こんなの必要ないよ。入院費は生保にすればよいよ」と、全員措置解除の手続きをとったのですが、何の問題もおきませんでした(都に届けるだけの簡単な手続き)。

 近眼や老眼なのに眼鏡も取り上げられ、時計も背広も病院預かりとなって、名前が大きく黒く前に書いてあるヨレヨレの上下トレーナー(病院支給)を着せられて、閉鎖病棟の中をウロウロしたりしていました。椅子が少ないため食事は立ったりしゃがんだりでする人も多く、全員一日一回一列に並ばされ点呼を受けていました。トイレも、小用は横に遮る物が無く丸見えで、大用は腰のあたりに細長い板がドアーの代わりについている上下丸見えのみたこともない物でした。プライバシーも私物も全て奪われた人達の強制収容所そのままの実態でした。

 このような病院が、厚生省の指導認可を受けた模範病院として、有名大学精神科医局より医師の派遣される病院だったわけです。現在日本には36万床の精神科ベッドがあり、大部分が単科精神科病院で入院者35万人、うち40%14万人は「社会的入院」といわれています(西山 詮)。

 全国学園闘争の熱気の残った1970年代は、全国に精神科病院改革運動が広がり、鉄格子を取り去り、入院者の処遇を人間的にする試みがなされました。私の勤務した病院でも全職場で討論を行い、上記閉鎖病棟では私も先頭に立ち職員一丸となって長年閉じこめられていた人を外にだし、鉄格子を切り、開放病棟にしていきました。長く倉庫にしまわれていた背広が虫に食われ、穴だらけになっていたり、預かっていた眼鏡を返して、「あなた、近眼だったの?」「実はそうなんです」と始めて分かったり、悲喜こもごもの情景でした。

 このように病院を開放し、開放型治療を行う事は長期入院者が希望をもって社会へ戻っていく事を援助する事でもありました。長く連絡のとぎれていた家族と退院にあたっての同意と協力は退院が成功する為の必須条件でした。本人がやる気を起こし、それを支え、周囲を説得しアパートを借り退院するまでには一年も二年もかかり大変なエネルギーがかかりました。精神科病院はアリ地獄のようで入るのは簡単だが出るのは大変難しい所だと痛感しました。

 当時は社会で支える為の現在のようなデイケアーや作業所が極端に少なく、孤独な生活を強いられた退院者には厳しい現実がありました。

(2)地域医療の時代へ(1970-1980年代)-ノーマリゼーションの幕開け

 そのころ率先して立ち上がったのは東京を始めとする保健所のデイケアーであったと記憶しています。私も何人か長期入院者の退院後のケアーを保健所のデイケアーにお願いし、担当保健婦だけでなく、様々な職場の人やボランティアの方が、おせっかいでなくそれなりに付き合いつつ暖かく見守ってくれ、いい過ごし場所となってくれました。

 そして病棟が開放化されているおかけで退院者も自由に病棟の中に入り、今までの仲間や職員に暖かく迎えられていました。病棟の雰囲気も退院者のおかげでおのずから明るくなっていきました。それとともにケースワーカーや臨床心理の人が中心となってデイケアーを始め、昼食を一緒に作って食べたりして、通院する人の憩いの場となってくれました。

 このころより精神科作業所もボチボチとできはじめ、家族会・患者会の活動も活発になっていきました。

 現在作業所は精神科クリニックと同じく急激に増加し続けており、昨年1年間だけで121ヶ所設立され、全国で1000ヶ所以上、家族会1300ヶ所以上、患者会200ヶ所以上と数えられますがこれは全家連の名簿(1995)に載っているものなので実際はもっと多いと考えられます。

 作業所等の社会的資源といわれるものの量・質共の発展は精神科外来診療の質そのものも変えようとしてきています。すなわち症状のある急性期に参加するほうがより治療的で、従来の病院治療及び外来治療ではできない治療が可能となります。病気に慢性的に囚われた生活より脱却する可能性が広がってきたのです。

 そのためには精神科作業所等の受入側の人的・場所的余裕(できれば多目的の防音室としても使える休憩室がほしい)及び職員と行政の側の精神的な余裕や自由の感覚が大切です、「作業やスケジュールは参加してもよし、しなくて休んで帰ってもよし」「かったるいときはパワーがでてくるまで通所せず自宅で休んでいましょう」メンバーとしての利用者は市内市外を問わずこられる人は誰でも受け入れる事。病院や美術館等ではあたりまえの事です。作業所だけ狭い縄張根性ではメンバーも職員も窒息してしまいます。メンバーのみならず家族も友人もボランティアも気軽に参加させてほしいと思います。まわりも学校にいってない子供が遊びに来たぐらいで、補助金の目的外使用などと目くじら立てるなどは大人気ないもいいところで、やめてもらいたいと思います。

 通所者が、診察、作業所等と複数の場に出ていく場合の鉄則を押さえておきたいと思います。本人の周りに家族、医師等医療関係者、作業所等福祉関係者最低3ヶ所数名ぐらいのかかわりができます。本人を中心とした暗黙の信頼関係を損なわないようにしなくてはなりません。よくあるのは、本人の目の前でそれぞれが、よその悪口をいう事です。本人の不安を掻き立て治療効果を半減するのみならず、周りまわって陰口も伝わりヽ本人の支援体制そのものにひびを入れてしまいます。本人の愚痴は聞いても、またかかり方等のアドバイスはできても、本人と周りの信頼関係を損なわないのが、治療の大原則です。大人の態度で自分の言いたい事を押さえる事も大切です。極端に裏表があったり、感情的な人が周囲にいる事があって、おかしいのは本人ではなく周りではないかと思うこともあります。また病気を持っていても、病気でない一部の人にあるように、周りの人間を巧妙に操作して争いを起こさせる人もいるのです。治療を目標としたお互いの信頼関係が何より大切な事です。

(3) 本人が主役の時代へ(1990年代)-インフォームド・コンセントの時代

 エイズ薬害のような医療被害を防ぐ為にも、各科でインフォームド・コンセントを行う事が当たり前の時代にはいったと思われます。

 ただし、精神科では、インフォームド・コンセント以前の問題があり本人の立場を考えたら到底付けられぬ病名が長年続けられて来ました(精神薄弱、精神分裂病等)。1970年代に入り国際的にも医学的根拠の薄い病名は次々にかえられていきました。 1992年WHOによるICD-10によって変更になった主な病名をあげておきます。カッコ内は旧病名。

 精神遅滞(精神薄弱)、神経性障害・ストレス関連障害および身体表現性障害(神経症、心身症)、双極性感情(気分)障害(躁欝病)、依存症候群(アルコール中毒他)、人格及び行動障害(精神病質他)、統合失調症は日本やアメリカ合衆国ではいい加減ですが、ヨーロッパ圏では狭く定義されており、敏感関係妄想とされてきた持続性妄想性障害並びに短期精神病性障害といわれる急性統合失調症様精神病性障害と明確に区別されており、精神科にも医学的方法が適用される時代が始まったと思います。薬物療法も精神療法も全く違っていて、有効な方法が見出されており、統合失調症と誤診すると、治せるものも治せません。

 未だによく分からないと、すぐ統合失調症にする社会の偏見やそれに無批判に従って統合失調症のレッテルを貼りたがる日本やロシア等後進国に特有な精神科の「専門家」がおられますが、そういう私もかつてはそうしてたわけで、恥ずかしい事です。

(4)藤沢市の過去と未来

 藤沢市は日本の地方諸都市と同じく、精神科病院はあるが、総合病院に精神科病床のない都市でしたが、精神科作業所が7ヶ所に増え、精神保健福祉にもやっと日の目をみるようになってきたところです。

 そうなると、精神科クリニックの質が向上してきます。なぜなら、受け入れる体制があるなら、急性期に本人は患者会のミーティングや作業所、家族は家族会に参加する事がより治療的だからです。アルコール依存症ではA,A等の患者会のミーティングが治療の基本です。断酒後早期の離脱症状が残ってい時期にミーティングに参加する事がより有効といわれていますが、私の体験では、他の精神障害も急性期に参加してこそ、本人・家族の開かれた体験につながりやすく、したがって、根本的な治療に道を開き易いと思っています。

 例をあげますと、私のクリニックでも、思春期専門の作業所「そーじゃん」に10名紹介しましたが、うち5名は経過よく治療終了し、「そーじゃん」も卒業して社会に巣立っていかれました。現在のところ治癒率50%で事故0です。

 クリニックのみでは到底不可能な治療成績です。1996年度は7名を紹介し通所中です。

 ところが、その「そーじゃん」が監査を受けているという驚くべきニュースが入ってきました。無事に監査が終わったとのことで、ホッとしていたのですが、この度公開された藤沢市の議事録を見て、とんでもない議論が展開されていると知って、ビックリ仰天しました。平成6年度決算特別委員会の記録(藤沢市議会)より引用します。

 E議員「私か聞いた限りでは登校拒否児童の方々で、「そーじゃん」に出入りをしていた方が数人、ある年齢がたってから、「そーじゃん」の精神障害者のカウントに入っているというふうに聞いている。 どうも故意にそういった操作がおこなわれていたのではないか。ましてや、Aという精神科医さんは顧問である。

 そして、この精神科医さんのケースワーカーの方が1人、運営委員に入っている。ある宗教団体がこのようなことをやっていると、今報道されているが、故意にそういうことが行われてきたのではないかという疑念がある。」

 複数の出席者に確かめたところ、私の実名をあげていたとのことで、後半の文意はどうも私をオウム真理教の林郁夫にたとえているようです。

 それにしても、事実であるかどうか検討なしに、通所者の経歴をあげつらい、風聞をもとに医師の正当な診療行為を誹謗中傷するとは、言語道断です。いわんや、市議会の質問の前にも後にも私に聞いて来た事は1度もありません。我々の税金で給料の支払いをうけている市議は、根拠を確かめてから、議会の場で質問するのが当然の義務ではありませんか。

 更に、作業所に紹介するにあたり、医師の守秘義務に属する事でもあり、実際上も必要ない事なので、病名は出さない事になっており、県・保健所とも確認済みです。又、私は登校拒否は自分を守っていることであり、それ自体は薬物治療法等精神科治療の対象にしてはならないと言う立場でクリニックの診療をおこなっております。従って、相談室で自費相談は受けますが、診察は病気でないが故に、行っておりません。

 これらをみても、実にいい加減な質問である事が、お分かり頂けると思います。これでは私を始め、紹介した医師が、病気ではない登校拒否児童を(私も病気とはおもいません)、ある年齢がたってから精神障害者と診断し、作業所の運営費用を不正受給したということで、登校拒否は精神障害になり易いといっているのか、でたらめの診断で精神障害にでっち上げ、作業所が不正請求をしたと言っているのか、いずれにせよ、事実無根のことです。良識ある藤沢市議会としても、地方自治法132条に抵触する疑いがあり、日本国憲法第13条、14条に違反する人権侵害でありますので、調査の上、厳重に注意して頂き、不穏当な発言は議事録より削除して頂きたいと思います。

 「かたくりの里」(1988年)に続き、「そーじゃん」(1994年)に至るまで、私のクリニックが設立に援助した作業所は3ヶ所になりますが、近年思春期精神障害が急増し、それに対する医療・福祉の体制が極度に遅れている実情の中で、思春期専門の作業所の必要に迫られて、私は顧問となり、ケースワーカーは運営委員となって、「そーじゃん」の設立に尽力して来ました。応援した市民の方は全員ボランティアです。「そーじゃん」の場合、通所者は21名で職員は常勤2名非常勤1名で、補助金は県・市合わせて今年度1100万円位です。補助金の額は社会福祉法人の作業所の3分の1位で、これで、家賃、人件費、運営費等払うと赤字必至で、家族・市民のカンパで成り立っているのです。職員も身銭を切り、食うや食わずで働いてきました。通所者も一人1坪もないスペースで、それこそ折り重なって過ごしています。

 無理解や偏見の中で、それでも「そーじゃん」は、年々紹介する医療機関が増えて、2年前の5ヶ所10名より、本年度は14ヶ所21名と確実に実績を作って来ました。初の思春期専門の作業所として、県内外の評判も高く、藤沢市が全国に誇ってよい所に成長したと思います。

 藤沢市民病院は500床の総合病院ですが、精神科の病床がありません。横浜、川崎と各市立病院は精神科病床をもっています。

 茅ヶ崎市、平塚市にはありませんが、共に文化都市として恥ずかしいことです。この為、精神疾患に身体疾患を合併された方の入院治療が市内では不可能で、止むを得ず近隣諸都市にあたり、何年も大変な苦労をして来ました。このように、議会として検討してほしい課題は山積みしているのです。

 市議会・行政には、根拠のない誹謗中傷には惑わされず、ようやく夜明けを迎えつつある障害者の人権と福祉に配慮した毅然とした処置を切に望みます。

 藤沢市民の精神疾患の生涯発病者46250人、日本全体で1500万人、全世界で7.5億人で、精神保健分野の医療・福祉の充実は世界の大きな潮流になっている事を、藤沢市はその潮流に逆行してはならない事を訴えて、最後のまとめにしたいと思います。

 なお、E議員は私のこの論文を見て訂正、削除しろと藤沢市医師会に乗り込んできましたが、当時の金子義一藤沢市医師会長は断固拒否した。

 当時の藤沢市議会議長も、E議員を支持して藤沢市医師会に乗り込んできて、「やるのか」と凄んできた。
 「ならぬ堪忍、するが堪忍」と相手にしなかった。「そーじゃん」の職員は何日も徹夜に近い状態で藤沢市役所の職員とともに、すべての領収書をチェックして、結局嫌疑なしとなり、E議員のクレームは根拠のないデマに基づくことが証明された。私も、E議員も嫌々ながら藤沢市医師会で金子会長の仲介の下、和解の握手をしたのである。このような困難な状況で「三吉先生はパイオニアです」と、私を支持して筋を貫かれ、3期6年藤沢市医師会長を務められた金子会長と藤沢市医師会雑誌編集担当者の清水純孝先生のご冥福をお祈りします。

 この論文は、当時藤沢市医師会報編集委員であった清水内科クリニックの清水先生が「日本の精神医療の状況を伝える」他にはないものだとして、掲載を強く支持されて、世に出たものです。

 なお、E議員は、松下政経塾出身ですが、その後藤沢市長になり、強引な市政を行い、市役所職員は100人を超える規模で多数うつ病が発症し、かつE市長自らも土地売買で汚職疑惑を起こして失脚し、現在藤沢市当局より訴えられて、裁判中です。

「天網恢々疎にして漏らさず。」(老子)

 権力者になっても、年をとっても、初志を忘れやすいのは人間の性です。

 私も自戒したいと思います。

三吉譲 「収容型医療より地域医療へ 一精神科の新しい波(クリニックと作業所)-」 藤沢市医師会報 1996年6月第251号 p5-6及び
三吉譲 「収容型医療より地域医療へ 一精神医療の新しい波(続編)-」 藤沢市医師会報 1996年7月第252号 p3-7に加筆した。



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