ケーススタディ
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過程の大切さ 立ち直りの三つの過程とその後
精神科に携わるようになって、早くも二十年たちました。数々の失敗と試行錯誤の中で、過程の大切さに気付くようになりました。
(1)過程の主役
主役はあくまで本人で、本人の尊厳が大切にされ、病気はあっても本人がいかに価値ある人生を送れるか、その中で病気に打ちひしがれた人生をいかに回復するか、にあります。医師を初めとする医療従事者は、そのための援助者でなければならないでしょう。
しかし、世間の人の中には、医者にかかるだけで安心という気持を持ち、また我々医師も「病気をなおそう」と関わって、結果はより重篤な病気に進行させてしまうという、実は双方共とんでもない幻想にひたっている事が往々みられます。特に精神科では「重篤で進行する病気」という従来の疾病感がありますから、自分自身が相手を泥沼に引きずりこんでいても幻想からさめない事が多いのです。
(2)症状と人間1治っていく過程の大切さ。
医療では「病気をなおす=病的な症状をとる」、と一般に考えられているようです。確かに症状は本人が悩み、また周囲を悩ますものです。症状の中で本人の生活は悪循環に入り損なわれていきます。
症状をとる事を第一義とする医療は、伝染病等急性の一過性の病気の場合はそれでよいわけです。飢えに直面し伝染病が蔓延する社会では、医療はそれでよしとされるでしょう。
しかし、文明が発達し、長寿社会になっている今の日本では、いずれどんな人も各種の病気とつき合いながらも、より意味のある長生きを求めざるを得なくなっています。
精神科では、急性の一過性の病気は、むしろ例外に入るため、病気とつき合いながら、よりよく生きるという考え方は特に重要です。
かつて精神科の駆け出しの頃の僕は、幻覚等の症状をとる事に生きがいを感じたものです。濃厚な治療をするには入院ほどいい場所はありません。当時、東京の差額をとる病院に勤務していた僕は、積極的に入院させ、疲れも知らず何時間も面接したり、これでもかこれでもかと大量薬物療法、時には電気ショック療法も行ないました。いわゆる急性期の濃厚な治療で、多くは一見めざましい効果をあげるのです。しかしその後の経過をみてみると、再発を繰り返し、繰り返す度に重症化し、家族が老い、また経済的に余裕がなくなると共にどこかの精神科病院に消えていく例が非常に多いのです。どこか大きな誤りをしているのではないか、という思いは消えませんでした。後年神奈川で終着駅の病院に勤務して、そこで出会った人達は、初期は殆どの人が、大学病院か有名病院で治療を受けた経歴を持っていたのです。
症例① 21才女性。当時看護学生。
初診時幻覚あって夜間家を飛びだしたりする行為あり。実家は南方の島で、東京でおばさんが世話をしていた。看護学生時代からの主治医の入院依頼状とおばさんの強い入院希望あり。本人は入院に抵抗するも保護者同意の強制入院とする。診察室で診察中、本人が突然立ち上がり逃げ出したが、診察室にいた若い看護師が追いかけて行って捕まえ、強引に連れ戻した。私が看護師の同伴を断って私と二人だけで診察して、逃がしてやればよかった。入院後色々と手立てを尽すも急速に荒廃状態となった。入院前の交際していた大学生の男性に来てもらって協力を頼んだが、「自分も疲れきっている」と、断られた。入院前はおしゃれもしていたのに、歯磨きや洗顔や下の処理もできなくなって、身の回りの事もできない状態になり、いまさら退院もさせられないまま結局家族が他の病院に転院させてしまう。今なら、何とか外来でやっていったであろう。今の私ならどうしていたか。私は診察室には看護師を立ち会わせなかった。1対1で面接した。私が彼女の安全基地となった。看護師は私が頼んでもいないのに、勝手に私の診察に立ち会った。看護師は精神保健及び精神障害者福祉に関する法律の強制入院の武力装置として、私が頼まないのに病院当局より配置させられたのである。彼女の嫌がっていた精神科病院には入院させない。交際していた男性と会わせて、二人の関係を保ったまま、彼女を安全な愛情のある母親のところに避難させる。邪悪なおばさんの側にいるのは危険だと判断した。学校に対して、休学の診断書を1年と出して、学校の協力を得る。一方交際していた男性の協力を得て、ストレスの多い看護学校はやめても、別の生き方があるという見通しを持って愛情のある母親と彼との関係を尊重して、彼女を援助していくのが筋であった。そういう中で、彼女の人生は希望がある将来につながったであろう。邪悪な目をしたおばさんとの関係は危険であったのである。おばさんの意志に沿って、強制入院を選択させたのは、前主治医と私の未熟さであった。彼女の人生を破壊してしまったと反省している。強制入院は避けて個の人間としての尊厳を尊重しながら、治療を続けていく事ができれば、過ちはおかさなくてすんだでしょう。しかしこれには、症状消失という目的にとらわれず、過程そのものを大切にする思想がなければなりません。そこが若かった僕には欠けていたものでした。(渡辺博「アマリリスは咲いても 精神科医その生と死」 NOVA出版 1991年)「強制入院がいかに本人の人間(=医療)不信を強め、長年かけてもとり除けなくなるか」の反省より著者の行った気長に本人との関係ができるのを待つ往診の記録が圧巻です。)
(3)立ち直りの三つの過程
病気に打ちひしがれた本人が、立ち直っていくには三つの過程をたどらねばなりません。
①受診までの過程
「物事は初めが肝心」といいますが、この過程がうまくいく事がその後の過程を成功させるための前提となります。「本人がこなければ治療はできない」という暗黙の前提があるようですが、少なくとも精神科ではこれがあてはまらない事が多々あります。むしろ本人の意志を無視して無理に連れてこられるため治療が成立しない事が多いのです。このためクリニックでは受診依頼に際し、「本人の希望に反して無理に連れてこられず、まず家族や友人・職場の方が来られるよう」に勧めます。そして周囲の方で、本人の生活・状況を検討し、本人がまず家庭で寛げ、学校・職場等で無理がこないような方策をねるのです。症状がある場合、例えばうつ状態に対して励ましたり叱るとか逆効果になる事を周囲が往々してますので、そこらあたりの話し合いと家族へのサポートだけでも随分有効なものです。その後多くは不思議な事に本人自らが受診してくるようになるし、拒薬も以上の過程で、本人と家族の信頼感が戻ると自然と服薬するようになります。一度、本人と家族の信頼感が戻ると自然と服薬するようになります。一度も本人と会わないままで立ち直ったケースも随分あります。
症例② 26才男性。運転手。
新しい職場に移ってその後、幻覚妄想状態。来院を説得できる状態ではなく、妻とのみ何回か会い、本人が安心できるような家庭でのすごし方を打ち合せる。「何か接し方がわかったようだ」とは妻の感想で、当初は拒薬するも、薬を変更して打ち合せしてそのうちスムーズに服薬し、症状もとれて、「我に帰り」明るい家庭となる。この方はその後も本人こず、妻が予防療法を継続している。
症例(3) 43才主婦。
幻覚妄想状態。来院は夫のみ。夫が自宅で看護を行なわれ、リハビリも一緒に畑仕事等を行ない回復。本人がこないまま、夫が月1回来院し予防療法を継続している。
このように家族のみがきて立ち直った場合と本人のみがきて立ち直った場合とをくらべてみると、長期的な予後は、家族のみが来た方がよい印象があります。すなわち本人の様子が一番わかる立場にいるのが家族で早めに手を打てるという事なのでしょう。勿論家族の協力の下で本人が明るく来られるのが1番ですが、この場合家族のカルテも別に用意しておくのがコツです。(家族の方には前記「アマリリスは咲いても」を読んでもらっています。)なお、生活をすさまじい勢いで破壊していく躁病及び自殺の危険性の高いうつ病の場合は入院が必要となる場合がしばしばあります。うつ病は自ら苦しいために「休息入院」の説得が容易で、内科で十分なケースが殆どです。しかし自らがとんでいる躁病の場合は、内科では病棟秩序を乱すため無理で精神科でないと対応できません。この場合クリニックの役目は家族と共に苦労しつつ入院をいかに本人に頼むか、そして退院後の再発予防のケアにあります。
症例(4) 25才男性。無職。
幻覚を伴った躁状態でその時は手がつけられなかったがうつ状態に入りやせこけて父と来院。その後回復し就職するも再発。躁状態となり父の持物をこわしたり金を盗んだりのトラブル続出。家族と数回会い、刺激せず受容するよう話し合い、一方入院の準備をする。約1ヶ月の辛抱で本人納得して精神科入院2ヶ月。すっきりと穏やかな本人に戻り現在月1回通院しながら専門学校卒業し、目下親族の会社を手伝っている。
症例⑤ 29才男性。セールスマン。
7月に交通事故をおこし、それまでの過労と上司とのトラブルが一気に爆発した形で躁状態となる。本人は来たがらないため、妻・会社の上司と何回か会いながら、本人の受診のチャンスを待つ。
10月頃になりさすがに疲労・困憊し体の症状出てきたため、内科受診に応じるようになったので内科医という形で診察。休息入院を勧めるとすんなりO・Kし10月末より精神科入院2ヶ月。退院後は本人キチンと外来に通院し、約2年の自宅静養を経て社会復帰される。
(2)治療の過程
家族ないしは本人が来て治療が始まります。
多くは疲労・困憊してますから、睡眠・食事・便通と乱れています。
「快眠・快便・快食」を目標に、休息できる環境を整え、同時に症状にあった薬を投与します。自宅で友人・親族がケアするのが一番なのですが、アパートの単身者や寮住いの場合、大部分は内科の休息入院を準備します。近くの私立総合病院に協力してもらっていますが、効果絶大で本当に助かっています。(但し多少なりともケアを要する人の場合、市民病院が、心療内科という形でもいいですから、入院ベッドを確保してもらいたいものです。)そして多少の症状があっても、薬はあくまで脇役にとどめて、少しずつ家庭或いは病院で寛ぎ、それから外で遊べるように指導していきます。この段階では親族・友人の、本人への穏やかな援助がとても有効です。要は治療には寛げる環境(場)と人間(関係)が何より重要で、それがあると薬は必要最小限ですむし、薬を必要最小限にできていると、次の段階をすごすのが容易となります。家や病院で寛げると退屈してくるものですが、この退屈した段階で社会に戻る事を始めると、再発につながります。退屈したあと遊べる事が大切で、よく遊んだ人はよく学べるようになるものです。そしてここに至る段階で本人の症状の動揺に対して家族はとてもブレます。家族を支えきれてないと、治療順調だナーと思いながらも「九仞の功をいっきにかく」となります。
症例(6)高2男子。
留学に行き、ストレス状況で幻覚妄想状態となる。学校と打ち合せ、自宅静養の体制をとり薬物投与。急速に回復し、夏休み前に復学。日中眠気出てきているので薬減量し、一方本人夏休み中アルバイトの希望あり。支持する。アルバイト始めて再発。夏休み中なので回復できたと思われるが、家族が他院に転院される。その後の連絡では、薬物増量するも症状悪化のため、入院を勧められ、本人嫌がっている旨。このケースは十分に寛ぎ遊ぶ事ができないまま、早すぎる薬物減量とアルバイトで再発したと思われる。読みが甘かったと悔まれるケースである。
症例(7)中3男子。
高校受験のストレスで幻覚妄想状態となり、家庭で暴れたりの興奮状態となる。家で安心してすごす事を目標に、学校側と交渉し、自宅静養のまま卒業の見通しをつけ、一方薬物投与。親戚の人達の協力も得て大好きな釣りを楽しんで十分に寛ぎ回復して現在高校生。2ヶ月に1回本人通院中。
このケースの方が症状はるかに激しく、またその期間も長く、薬物も前記高校生の何倍か使っているのに、良い経過だったのは苦しい状況を家族がよくついてきてくれたためでしょう。
(3)社会で生きる過程
前の段階で、休息・遊びが十分にできた人は、この段階が楽にこなせていきます。
しかし現実は、本人の性格・気質・環境(枠がないと不安、友人少ない、親・職場・学校が力夕く、説得しても譲らない等)のため、不十分な形でこの過程に入らざるを得ない事があります。
実はここが一番難しく、再発もこの時期が一番多いのです。
①焦りは禁物で、時間がゆっくり、たっぷりいる事。(半年~2、3年)。
②本人が過程の中心となる事。(決めるのは本人)。
が原則で、医師をはじめ周囲の焦りやおせっかいは長期的にみると逆効果です。これが実に難しい、というのは、現行健保での診察は、せっかち⇔自分と悪循環となりつい治るのを急ぐ事になりがちで、また本人・家族も「焦らず・ゆっくりが一番よい」という体験を自らもたねばならぬからです。忙しい診療ながら再発を防ぐ重要なポイントがあります。
③家族の背後にまわっての持続的な協力。
④職場学校等の協力。
症例(8) 高2女子。
友人関係で悩み、昏迷状態となり内科入院。退院後、何回かの危機を家族の協力で通り抜け、現在ベテラン店員。2ヶ月に1回通院中。美しくなり自信にみちた日々で、お見合話もきている旨。男性をみる目もできてきている印象である。
症例(9) 高3女子。
進路のストレスで精神運動性興奮状態となり精神科入院。退院後、薬減量し、アルバイトに出るが、説得に応ぜず服薬中断。再発し、再入院加療中。
症例(10) O L。 22才。
自殺企図を伴う幻覚状態で来院。会社の協力を得て6ヶ月の休職とし、母の献身的な看護で快方に向う。ヨガ道場・作業所とリハビリの期間を持って復職される。母が自ら安定剤のみつつ一緒にヨガ道場に通ったりされ、本人「母への信頼が戻りました」と述懐される。職場・学校に戻る時も、当分の間はストレスに弱く再発し易い状態ですから、定期的に通院しながら、定時に帰宅し、適宜休養をとるという慣らし運転が必要です。症状が消え、一見健康になっていても、社会で積極的に生きていくにはその前の段階で、家族や学校・職場の人との打ち合せが再発防止上是非共必要です。
(4)その後
その後本人は社会で生きていきます。社会の荒波でもまれ、知恵とたくましさを身につけながらも再発の危険にさらされます。ストレス状況下で、不眠・イライラ等症状が再燃の兆しをみせてきます。前駆症状の段階で早めに手を打てるかどうかは、身近かな人間役割大であると共に、本人が過去の自分の歴史を否定しないで受けとめられるようにいかに成熟しているかにあります。
症例(11) 22才女子。大企業OL。
職場の人間関係で悩み、幻覚を伴う躁状態となる。紆余曲折の末精神科2回入院し、以後自宅静養・職親での仕事を経て、約3年後再度大企業就職。しかしこの時点で、あれほど「服薬・通院は続けるよう」話していたにもかかわらず家族には「医師が薬のまないでよいといった」といい無断服薬ストップ。まもなく再発される。社会に大手を振って出たとたんに、今までの病歴を「否認」し、それと共に再発されるケースで一番多いのです。
症例(12) 28才男子。大企業社員。
幻覚妄想状態で自殺企図。骨折治療後不安定な時期を経由して、その後再就職。この方の場合、就職後も「また頭がまわってきそう」と早めに来院されては薬を受取っていかれ、今の所順調です。
沈没しない前に本人及び家族が早めに来院して、手を打てるかどうかで運命が別れるようです。人生がわからないと同じくどんな病気も再発しない保証はありません。
幸い、現在の薬物療法は予防療法の段階に達しており、三つの過程を経て立ち直った人は、その教訓を前駆症状の段階で生かせば、被害は軽くすむと思われます。そのためには本人自身が、自らの病気に至った経過と、その後の人生を前向きに受けとめられるよう時間と共に熟する(時熟)まで(時熟には場が必須ですが)、家族・友人・周囲の暖かい見守り(関係)が必要なのです。
(5)最後に治療後半のひいては再発防止の鍵は、社会に出ていく段階で、周りの人間との関係ができているか、そしてゆっくり歩んでいける場があるか、で決まっていきます。症例(10)の女性は、毋を中心とした人間関係の再確立に、クリニックの談話室、ヨガ、作業所と場を持っていたわけです。
公民館の健康体操なども良いですが、朝日カルチャーセンター等で良かった人もいます。講師の人柄によります。当藤沢、湘南地区は、現代日本の効率第1主義の象徴のような所で、金のあって元気の良い人の場は沢山あっても、病み上がりの人に必要な場とそれに伴う人間関係としては実に貧しいところです。金のある人の関係も貧しい国ですが。それでも心あたたまるところが探せばあります。日本は、世界は可能性を持っています。
過程の大切さ 立ち直りの三つの過程とその後 三吉譲
藤沢市医師会報 第200号 別冊 1992年3月に加筆訂正した。
羅臼岳山頂より硫黄岳を見る 2013年8月17日
登頂を終えて 羅臼平 2013年8月17日
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