生きる機軸を求めて


ケーススタディ




生きる機軸を求めて

索引




自由人ならざる自由猫 ココア
「外に出たいニャン、ここを開けてニャン」




生きる基軸を求めて

Ⅰ. 「原点に立ち返る」まで

 私は1970年に大学を卒業して精神科医となり50年たった。その頃私は東大精神科医師連合の一員として、ロボトミー手術を受けたMさんの主治医となり、当時まで国・学会で認められ、世界的にも幅広く特に日本では大々的に行われた精神病患者に対するロボトミー手術の中止を求めて闘った。

 学会闘争は勝利してロボトミー廃止が決議されたが、それまでに日本の被害者は20万人、アメリカは2万人、共産主義国ソ連でも行われ、全世界で数十万人、日本が圧倒的に多かったのである。

 その後、私は富士病院を経て、450床の巨大精神科病院に就職して、男子閉鎖病棟の病棟医長となり、病棟の開放化とともに10年以上の長期入院者の退院援助をスタッフと共に行った。

 退院は1~2年かかったが、その頃は、精神科病院と保健所以外の社会資源は何もない時代であった。

 退院した人たちが行き場のないまま協力的な保健婦さんのいた都内某区の保健所の玄関でブラブラと所在なげにたむろしていた。保健所の職員は誰も文句を言わず黙って見守っていてくれた。

 その中に人の良い素直な性格の一人の青年がいたが、ある人物にアパートに入り込まれて金品をむしり取られてしまい、逆に反撃して包丁でその人物を刺して殺してしまい刑務所に入れられてしまった。

 元警察官の父親が、「このようになることを心配していた」としみじみと語った顔を覚えている。

 デイケアもない時代で、ケースワーカーはいたが病棟にかかりきりで退院後のフォローができなく、本人と父親には悪いことをしてしまった。

 ケネディがアメリカで何百もの公立精神科病院を一挙に閉鎖して、何十万人もの入院患者が一斉に町に出て、社会的なケアもなく、ごろつき・悪人達の食い者にされたと聞く。

 小さい話しながらも同じ状況であったと思う。

 その後、私は陽和病院を辞め(一緒に働いていたケースワーカーも辞めた、私もケースワーカーも脱出したかったのである。)、貧者の楽園といわれた神奈川県秦野市にある上秦野病院にパート医として勤務しながら、藤沢市辻堂にある小さな総合病院-湘南中央病院に内科医兼心療内科医長として勤務した。

 街の精神科医療の必要性を待ちかねていた人が殺到し、200名の外来患者を診るようになり、北村ケースワーカーを呼び寄せた。

 彼とともに熱心に地域精神科医療活動を続けた。

 ところが、繁盛のあまり病院経営を圧迫し、ついに私は退職を迫られ、無一文(私は、長年ボランティアをして、貯金0であった)のまま、北村ケースワーカーの手伝いで、独立・開業の場所探しをした。

 田尾さんたちの支援とカンパ300万円で、1986年に藤沢市の藤沢駅南口に駅前診療所を開設したのである。

 当時、藤沢市内では成人向けの本格的なクリニックは、私が初めてであった。

 児童精神科クリニックは1ヶ所あり、他に夫が内科の診療をし、妻が精神科の診療をしている小さなクリニックが1ヶ所あるのみであった。

 現在、藤沢市内の精神科のクリニックは30ヶ所近くの数になっている(藤沢市精神科医会会員:26ヶ所、他に非会員のクリニックもあり)。 

 その間の経緯は、miyoshiyuzuru.net ケーススタディに掲載してあるので興味ある方は開いて見て欲しい。

 この頃以降、総合病院にあった精神科は次々に廃止され、全国で5千床もの総合病院の精神科ベッドがなくなった。

 私と同じように病院にいられなくなって開業した精神科医は100名を下らないと推定される。

 藤沢市民病院でも精神科医長の長崎先生が、内科病棟に精神科病床(10床)を持ち、もう一人の精神科医とともに外来と病棟で診療していて評判も良かった。

 ところが新生児救急(NCU)を開設するために、当時の助役により、精神科医師1人を削減され精神科外来と共に精神科ベッドも廃止され、他科患者の精神科相談のみにされたのであった。

 小田原市民病院(一人医長)の精神科も廃止され、横浜南共済病院・昭和大学病院・東海大学病院と、次々に総合病院・大学病院の精神科病床がなくなっているのである。

 単科精神科病院の病床は30万のまま変わらなかった。

 経済的背景がある。国民一人あたりの所得はここ10年以来変わっていないというが、精神科医療の診療費は切り下げられているのである(通院精神療法380点→330点、1点10円)。

 因みに、内科医療における生活習慣管理料(脂質異常650点、高血圧700点、糖尿病800点となっている。すなわち、精神科特例法(薄く・安く)を柱とした国の政策の中で、大学病院・総合病院にとって精神科外来は不採算部門で割に合わないのだ。

 そうした逆行する時代の中でも、私は懲りない性格で、まだ夢を見ていた。

 世の中には、良い精神科病院もあるのでそうした病院と連携すれば、駅前クリニックで良い地域医療ができるという夢を描いていたが、幻想であった。そして、私は限界に突き当たっていた。次々に私も持病に見舞われた。

 確かに、苦悶状態や混乱状態にある人でも、ベッドで寝ていることができる人は、うつ状態の人と同じように総合病院の内科と協力して20日程度の休息入院で回復することができ、私もこれまで数十人はそうした患者を診てきた。

 しかし、もっと重症の人の場合は入院中のケアが必要で、内科の看護師は日常の処置に忙しく、耳を傾ける事ができなく、ケースワーカーも外来で手一杯で、入院中のケアが必要な人を頼める病院が必要であった。

 私は、開業以前も以後も、かつて私が研修時代から同僚であった冨田三樹夫医師が医長をしている東大精神科病棟に何人も患者さんの入院を依頼した。

 入院後も大切に扱われ、ほとんど全員が経過よく退院外来につなぐことができた。

 しかし、頼みの東大病院は、患者殺しで有名で名高い宇都宮病院と研究協力をしている医局講座派が病棟を吸収合併し、冨田先生はじめ頑張っていた若手医師は全員大学を出ざるを得なくなり、診療実績の高かった赤レンガ解放病棟はなくなったのである。(『東大精神科の30年』冨田三樹夫・青弓社・2015)

 信頼できる入院先を探し、軽度うつであれば県立精神医療センター、あるいは久里浜医療センターを頼んだが、なにぶんキャバシティが狭く、どうしても単科精神科病院を頼まざるを得ない。

 貧者の楽園といわれた上秦野病院も(私がパートで行き主治医となっていて)患者を大切に扱ってくれるところであったが、良心的経営故に赤字となった。東京新橋の料理屋に買収され、オーナーの息子の医者が乗り込んできたが、病棟で患者がかわいがっていた猫をパチンコで撃って興じるというとんでもない男であった。

 私はある日突然そのパチンコ男に解雇され、患者に別れを告げるまもなく病院を去ったのである。

 かくて、どうしてもというときは精神科病院しかなくなったが、良心的とされた病院においても、軒並みに経営熱心で建物は新築されホテルと見間違うようになったが、中身は50年前と変わらずである。

 入院後の患者が興奮すると(劣悪なプライバシーのない入院環境で興奮するのが普通)、保護室で拘禁されおむつを着けられ、大量の向精神薬を注射され、それでも沈静化しない場合は、ケースワーカーが家庭裁判所と家族の了解を取り付けて(本人の了解は必要とされない!?)、電気ショックを受けて沈静化される。

 新型電気ショック(修正型電気ショック: modified electrical shock:mESといわれる)は1回3万円、10日連続で行って1クール、3クールを標準とするため計90万円となる。

 そのため個室等を用意すれば大変儲かること間違いない。

 受けた患者は、1年以内の出来事、辛いことも嬉しいこともすっかり忘れてしまう。

 なぜ発症したのかを忘れてしまうため再発率は高くなる。但しロボトミーと違って、脳が永久的に破壊されることがないため、1年位たつと脳機能は回復することは確かめられている。しかし失った記憶は戻ることはない。mMSは、老人性うつ病で薬物療法が行えず、生命の危機がある場合とかに限定すべきであろう。歳をとろうと若い頃の記憶が大切である。うつ病はつらいものであり最近の記憶はなくなっても楽になりたいと思うのは人情である。若い頃の記憶は人間を作っていくもので成長にはなくてはならないものであり、老人には施行されることはあっても若者に電気ショックはしてはならない。

 そして、現代日本の精神科病院では、入院して人間的な扱いを受けなかったと回答する人が8割もいて、精神科での拘束は増える一方である(資料1『精神障害のある人の権利』p37~38)。この本によると2013年から拘束は増え続け10年で2倍なったあと高止まりしている。ロボトミーはなくなったが、すぐに拘束するようになり、拘束→オムツ→大量薬物投与は標準コーストなり、以前にもまして非人間的になっている。昔は看護者も人間的な関わりをする人が多かった。面倒見が良かったのである。後輩の勤めていた精神科病院では、看護者が「美味しいものを食べさせてあげよう」と入院患者に腰縄をつけて行きつけの寿司屋に連れて行ったというエピソードも聞く。

 人間的に扱われなかった人は、退院してもトラウマが癒えることなく、時間が止まって屈辱と絶望の陰惨な記憶のエンドレス再生モードに入り、後ろ向きの生活の中、人間不信のまま再発して同じ経過をたどり、ついには「治療抵抗性」の患者とされて終生病院で生涯を終えるのである。少し古いが資料2(図1~5)を見て欲しい。日本の精神科病床数は世界最大で入院期間も最長である(図1)。入院期間1年未満の退院者は72%で、1年以上の退院者は4.8万/30万人で1.8%、計73.8%(図2.図4)。26.2%つまり4人1人が長期入院者となる。とすると、H20年の新規入院者37.8万人の内25%の9.4万人が毎年増加するはずであるが、30万人のままである。どこに行ったのか? この9.4万人は高齢化して精神科病院付属の特養ホームに収容されたか、病院内で死亡したことになる。すなわち毎年9.4万人の青壮年者が補充されて高齢化していることになるのである(図5)。入院者は統合失調症が年々減少し認知症が逆に増加している(図3)。統合失調症で入院しても長期大量の精神科薬物療法で認知症になりやすい。

 私は、精神科病院に入院させないでなんとかしたいと苦闘しているうちに、何人もの患者を薬漬けにしてしまった(前記ケーススタディ「或る技術者の症例」)。2010年頃に私は行き詰まってしまい、ヨガで回復した患者に学んでヨガ道場に通うようになった。その時、2011年3月福島原発事故が起きた。それまで私は原発を意識したことも勉強したこともなかった。福島に通いながら初めて髙木仁三郎氏等の著作を読み、亡くなった友人の松島君(43青医連)がかかわった三重県芦浜反原発闘争(初めて原発を阻止)を思い起こし、山口県下関上関祝島の漁師の妻たちの闘い(上関原発反対闘争)等を知ったのである。

 田尾氏の『飯舘村からの挑戦』は事実を丁寧にたどった良書であると思う。無関心・無知であった私は田尾氏の勧めで『原点に立ち返って』を書評として書いた。まさに「無知の涙」(永山則夫)である。みんな涙を流すしかない。


Ⅱ. 精神科医としての生きる基軸

 私は2010年(69歳)頃まで基軸を失っていた。私に必要なのは精神科医として生きる基軸である。

医師としてできることは、3つある。①診断書 ②薬 ③ガイド

但しそのためには、

1. 思いは必要である。「医療は人助けである」との思いはイメージとなり技術の基礎になり、力となって他者とかかわる原動力となる

2. 資本主義社会では、事実として採算、利潤で動いている。それは必然的に上記1.の人助けと矛盾する面を持つ。フランスの精神科医マリ-・フランス・イルゴイエンヌはその著書『モラル・ハラスメント』(1999年、紀伊國屋書店)において資本主義を信じ活用する「自己愛人間」により他の人間を追い詰め破壊していく状況を描き、それに対していかに自己を守り闘っていくかを、実例を多数集めて提示した。資本主義は、自己愛人間にかかるとその自己増殖・他者破壊作用を遺憾なく発して、反面、自己矛盾で自壊していく例も挙げている。私は、資本主義社会の会社等の組織の中で追い詰められた受診者に対して、資本の害とそれに対する本人の過剰適応を指摘する。そこで目が覚める人もいるが懲りることなく「いい子ちゃん」を続ける人もいる。私も懲りることなく説いていく。本人も私も粘っていると、ついには自ら申し出て休みを取ることができるようになり、それを認めてくれる上司や同僚が出てくる例に出会うようなことが起きる。最近は弱者を受け入れるように会社や組織が変わってきたのではないかと、私は思っている。すなわち、善人が主導する会社に変わって、会社も人手不足に悩まされることが少なくなってメリットも出てくるのである。(参考 ※1)

3. 次に、権力を持った者に対して、その理不尽な権力性といかに対処するかを検討する。怒りにまかせて殴ってしまえば万事休すである。泣くだけでは誰も助けてはくれない。まず逃げて安全な場所に避難することを勧める。この場合、診断書の休養指示が有効であるが、下手に出すと「ヤブ医者」として軽蔑され無視されてしまう。有効だが出す内容とタイミングをうまく計らなければならいない。社会的弱者に対しては、権力は労働基準法や憲法に保障された権利を平気で無視してくる。(これは、会社と同じく、いじめが多発する学校でも同様である)。その作業の中で、組織の中での協力者と敵対者が見えてくる。首にならない程度に出すのがコツであるが、知恵と経験を要す。ファシズムとしての権力ついてハンナ・アーレントが素晴らしい。主著『全体主義の起源』は必読書であろう。私は最近『イスラエルのアイヒマン』(1969年 みすず書房)を読んだが、平凡なそれなりに真面目に生きてきた一市民がいかに権力に絡め取られ大殺人者になっていくかが描かれている。平凡・実直などこにでもいる一市民がファシズムの下では加害者に変わっていくのだ、かつて日本兵がそうであったように。これは、日本人が自らに今に至るまで突きつけられなかった問題である。権力そのものを考えるときの基礎になると思う。権力を持つと人間は変質し易い。これは国家においても、会社においても学校にいても、また家庭においても共通している。

4. 食べられない・眠れない時には、薬を検討する。精神の状態に対してそれぞれ特効薬と言っていいものがある。それぞれ薬効が違う、状態にあわせて薬物を選ばないと逆効果になったり薬物依存になったりする。すなわち薬を飲めば飲むほど悪化してしまう。薬物は日進月歩であり、常日頃の研究が必須である。各人・各状態にあわせた処方が必要。なお、精神薬のみならず身体症状(便秘、不眠症などにしても)についての治療薬もここ数年で画期的に変わっている。正しく薬を使うと、急性期は100回分のカウンセリングよりも有効である。訪問薬剤師の制度が認められ、湘南中央病院で活躍を始めた。本人の立場や状態にあわせての薬の活用ができて活動的となってきた。薬は杖であり、靴であり、時に義足であり、間違うと足かせなると、私は思う。どんなに良い靴を履いても歩くのは本人であり、本人が歩かないことには薬の意味がないのである。靴・杖を本人の立場に立って使い勝手をチェックし工夫する訪問薬剤師の働きは大変に有効である。(参考 ※2)

5. 追い詰められた人が脱出するに際して、共に動くケースワーカー・共感しつつ気持ちをわかってくれるカウンセラー(心理士)は本人の大きな力になる。その援助で自分を取り戻した人は数え切れない。共に医師には不得手な分野で大きな力を発揮する。ケースワーカーが丁寧に付き合うだけで病気が治って行くもしくは病気と折り合いをつけて生きていく人を何人も見てきた。しかし、権力や資本の言いなりになって過剰適応を推進する者も増えてしまった。

6. 私は微力ながら、母親の相互援助の団体を30年支援してきた(三吉クリニックの家族会の原点の考え方)
① 人類は核家族より始まり、核家族は現在の家族システムの起源である(エマニュエル・トッド『世界の多様性』藤原書房 2008)。
② 人格をつくるのは、乳幼児期の母子関係であり、人類をつくっているのは現在も母子関係である(ボウルビィ『親子のアタッチメント 心の安全基地』医歯薬出版 1993)。

7. 当事者会(「お互いさん会」の名称でクリニックにおいて定例会を行っている)
当事者を主体とする歴史は浅いが、次の原則を決めて活動している。
① 必ず当事者を入れる。たとえ本人が認知症や狂乱状態であろうと当事者ぬきでは当事者に関する討論・決定はしない。本人がいないときの本人についての話題は差し控える(ヤーコ・セイックラナトム・アーンテル『開かれた対話と未来』医学書院 2019)。
② 関係者の集まり・協議する会を開く際は、必ず本人中心で行う。呼びかけは医師以外が望ましい。
③ 当事者会の行事は会長が司会する。毎月1回の定例会で幹事を選んで企画を行う(この1年は若い幹事で春・秋と楽しいハイキングができた。忘年会とライブハウスでの新年会も行う)。

8. 情報は全員で共有する。コロナの勉強会は何回も開いた。個人情報は当事者が持つ。私のところでは、検査結果、紹介状は(本人希望しないときを除いて)すべて本人に渡す。紹介状は、本人が補正してこそより良いものになる。

9. 自然を含め「相互に依存して、共に立ち上がる」関係を目指す

 精神科病院での「人間として扱われなかった」経験がトラウマとなり、人間不信を生み、助けてといえなくなって孤立しまた狂乱状態や躁鬱状態となって追い詰められ再入院→長期入院につながってしまう。人間として扱われると、当然ながら人間不信が和らぎ、助けを求めることができ、入院を防ぎ長期入院を防いで、助かることが増える。「渡る世間に鬼はいない」とはよく言ったもので地獄のような学校・職場でも情のある人に会うことがある。これを昔から「地獄に仏」という。私は、我慢はせず転校できるなら転校し、引っ越しできるなら引っ越し、転職できるなら転職した方が、安全で平和な場所、良い人たちが多数を占める場所にであう確率は高くなると思っている。エマニュエル・トッドによると人類には辺境地域の保存特性の原則があり、周辺部分に昔ながらの素朴な人間の集まりが残りやすいという。確かに地域を変えるだけで地域の雰囲気・文化は全く変わるのである。悪人が支配するところと善人が中心のところはあちこちで入混じっているようだ。 (大腸の菌集落の例で説明するとよくわかってもらえる。資料3)(参考 ※3)

10. 精神科訪問看護

 精神科病院は50年前と変わらないが、明らかに良くなっていることは訪問看護が始まり定着したことである。三吉クリニックでは2012年より始めて、現在男性15人・女性14人が訪問看護を利用している。訪問看護を受け生活が安定していく方向にゆっくり向かっている。訪問看護がうまくいっている時は本人・家族の(家庭での)状況が、良い点・困っている点も含めて報告を読むとわかる。今まで訪問看護がなくてよくも30年あまり精神科クリニックをやっていたなと思うほど生活がサポートされていることが伝わってくる。再入院しても、安心して退院できまた生活が始まる人が多く、本人も家族の大いに助けられている。
 

Ⅲ. 治療の実際

【原則】 医療は人助け、困っている人を助ける

急性期:苦しみを共に苦しみ、苦しみを楽にする。
突発的な行動(自殺・他壊)を防ぐ、この方法には選択はない。選択する能力をまだ回復していない本人に選択させてはならない、医師として指示する(安全の確保、休養・栄養・薬)、時にはドクター・ストップをかける。
治療のやり方-初回面接(急性期が多い)
予約は出来るだけ、待たせない。その週に行う。
急性期は自殺が多いからである。(資料4)
ケースワーカーがいれば予診をとってもらうが、いない場合は自ら行う。

(1)状況の確認
主に家族歴を確認、誰と住んでいるか、どこで働いているか。この場合あらゆる予断・偏見を排す。マインドフルネスが基本、かつてはヨガをやり今は気功・太極拳やっているが,やって良かった。

(2)本人の受診に至る経過の把握
このときは共感。本人の苦しみ、不安をそのまま受止めて我がものとなす。ポイントが見えてくる。

(3)問題の把握と診断
 再度、マインドフルネスに戻り思索していく。何が問題か、どうしてそうなったか、どうしたらよいかとポイントを整理していく。①休む-安全の確保 ②立ち直るには何が必要か。 

(4)ガイドのやり方
 ガイドはするが、指示的ガイドより始めて本人の回復に従って非指示的ガイドとして、診察回数も週1回→2週に1回→4週に1回→3ヶ月に1回(6ヶ月に1回)と伸ばしていく。6カ月では赤字になるのでやめてくれと経営を預かる事務長から言われているが、患者本人の必要によりあえて行っている。
問題解決に向かっているか、行き詰まっているか。遷延してきた場合、何が問題か、もう一度、始めに立ち帰って行く必要はみな同じ。山で道に迷ったら止まって冷静になり元の道に戻って見ることがコツ。

(5)私にとって夜は発見と創造の時間
 早く寝て大体3時に起きている。7時までは自分の時間である。気ままに本を読んでいるが、このときふっと思い浮かぶことは治療上の大きなヒントになることがある。忘れずメモしてそれをカルテに貼ったりする。行き詰まった時の手がかりがつかめることがある。私の脳は視覚記憶がとび抜けて良く、名称記憶が伴わないようだ(顔は思い出すが、名前が出てこない)。そのため氏名録をつくってある。印象的な場面の登場人物に名前を付けるやり方を最近活用している。場面を思い出すと名前が出てくる。

回復期:本人が自分を取り戻して来る時期。
 情報は全部出して、決定は自身でしてもらう。ただし、時に必要なガイド(非指示的相談のやり方)はする。

 江戸時代や不幸の続くアフガ二スタンと違い、今の日本では、いろいろな選択をすることが可能である。ここでは非指示かつ受容的で、意見を求められても回答は与えないようにする(医師の回答はそもそも当たらないことが多い)。
本人が選択できない時は、本人に選べるように質問して、本人に考えながら答えてもらう。これは依存症治療の基本である。(『動機づけ面接法』ウイリア・R・ミラー 星和書店2007)

急性期・回復期を通じて、医師のできることは、①診断書、②薬、③ガイドの3つである。

医師のできないこと・大変不得手なこと

ア.看護: 中世ヨーロッパでは、行き倒れの旅行者を収容し保護した僧院が病院の始まりで、薬師(くすし)であった医師は呼ばれていって投薬治療をした。食事・排泄・清潔は看護者しか出来ないことで、医師の仕事とは区別されていたのである。回復期訪問看護は有効でその後も人生の同伴者となってくれる。

イ.ケースワーカー:同行しサポートするが代行はしない。これは時間とエネルギー・熱意を要する。

ウ. カウンセラー:本人の心に寄り添う、これも時間とエネルギー・熱意を要する。
この上に立って、基本的な視点が必要となる。

A. 発達の視点-神経発達、知的発達 学習障害 多動性障害、自閉性傷害

B. トラウマの視点-愛着障害と関連

① 無意識での暗黙知でのトラウマ、幼児期に固着する。「三つ子の魂百まで」、子供に親は選べない。同じく親にも子供を選べない。親と子殿がお互いに選べないと分かち合える時に初めて前進できると私は考える。

② 反すう性侵入性トラウマ思考-時間が止まる、タイムスリップする。
本人が消耗し尽くすまで止まらない。マイナス体験が視覚・嗅覚・臭覚の体感覚を伴って、天然色で再現を繰り返す、エンドレステープ(DVD)。

③ 安全の確保が基本

C. 適応の問題
    (私が10年来行っているかながわ女性センターの相談では発症前の人に会うことが多く、適応障害の段階で手を打てるのが基本とわかる。ただし、クリニックの受診時には大部分が更に進んで、発症の4相に至っている)
 ・不安障害( 全般性、強迫性、身体表現性、パニック障害等)
 ・気分障害(単極性うつ、躁、双極性Ⅰ型・Ⅱ型)
・思考障害(統合失調症に多い)
・認知障害(進行性のことがしばしば)

 しかし,中には今も昔も変わらない発達障害圏の人もいる。転院を何回もしてセカンドオピニオンを求めて来る人もいる。
以上の視点を踏まえて、回復の道筋を探すが、これは当事者と依頼された者の協働作業である。どん底におち、すべてを失った人間でも回復の実例あり(巌窟王30年)。

1. 人類は、いかなるトラウマをも乗り越えてきた。戦争によるジェノサイド、飢饉、伝染病によるパンデミック大量死。

2. 芸術はトラウマより生まれ,トラウマを克服する手段となってきた。音楽・美術、ヨガ・気功法・太極拳の養生法はトラウマにも有効。

3. 人とのつながり・自然や動物とのつながりはトラウマを癒してくれる。人以外にも自然は助けを呼べば癒す力を持っているようだ。

4. 人間-人類そのものが回復できるという可能性・可塑性をもっている。進行した認知症でも回復した実例がある(『私は誰になっていくの』クリスティーン・ブライデン クリエイツかもがわ2013)。そこが人間以外の自然・動物と違うところである。動物、植物は一旦受けた打撃は終生回復できない、絶滅した動植物は数え切れない。人間の手にかかり自然破壊すると人間が手助けし破壊しを中止しない限り、破壊が自動的に進行することがある。たとえば山→山道→巨大な水路→崖とがけ崩れ、  傾斜地大規模農業→表土の流出→がり(岩溝の形成)。(『土の歴史』デビットモンゴメリー築地書房 2010)                                                    
D. かながわ女性センターでの相談について-病気になる前に必要なこと、精神科クリニックに行く前にぜひ相談しておきたい相談できる場である。

 2010年、前任者の退職により私は縁あって藤沢市江ノ島にある「かながわ女性センター」(相談所)に嘱託医として勤務してきた。

 そこで出会った女性たちは、発症前に来所していたがまず発症までに5~10年かかっているということ、その段階で適切な相談援助をすることが発症後の精神医療よりも遙かに根本的で将来の生き方につながるということ、相談所の女性スタッフは熱意をもってごまかすことをしなかった。

 私は、発症して精神科受診する前に相談に乗ることの大切さを学んだのであった。

 ここに神奈川の良心があると思っている。

 江ノ島の伝統あるかながわ女性センターは「オリンピック2020」のヨット競技のための施設敷地が必要のことで2019年に取り壊され、神奈川県合同庁舎に「かながわ男女共同参画センター」と改名・移設された。併せて男性相談も始めた。

コロナ禍もあった相談者は減った。

 女性相談と違って男性相談は少ないが、家庭内で権力を握った妻が人のよい夫を虐待する例に出会った。

 女性は日本では社会的弱者である。

 しかし、家庭内では暴君に変貌し、子供・夫を虐待する加害者なることも起きているのが現実である。社会的弱者といえども加害者になるのだ。

 私は、月に1回は女性精神保健相談、月に1回は男性精神保健相談の精神科嘱託医である。

 戦後、米軍慰安所女性相談に始まって、今に至る歴史が途絶えることなく続くことを願っている。

 日本では弱者の虐待は明治より始まった「板子一枚下は地獄である」の現実であるがゆえに。 

E. 社会資源の活用
急性期  安全  休養

 飽きてきたら遊ぶこと、社会復帰の前に、退屈するまで遊ぶことを勧める。趣味を持っている人は趣味に没頭して、あきて社会に戻っている。

 趣味のない人はどうするか。

 日本でこの近年活発となってきた社会資源の活用を勧める。精神科病院は変わらないが、この分野は画期的に変わってきた。

1. デイケア 
 給与は出ないが医療保険が適用され自立支援医療の対象となり、昼食もでるので経済的負担も軽く利用できる。社会に戻っていくリワークプログラムに参加できる。私のところでは藤沢駅北口のTHPメディカルクリニック・デイケアを紹介している(サポートがよい)。このプログラムを3~6ヶ月続けると次の道が開ける。協力的な会社であればここのリワークプログラムで復職できる人が多い(復帰率80%)。

2. 就労支援事業所&ハローワーク(職安)のトライ
 通いながら技術(主にPCが多い)を身につける。給料でないがハローワークでは月10万円の生活援助費と訓練費がでる。民間の方が面倒見のよいことが多い。ハローワークのトライは通いながらいくつかの資格を取って就職する人がいる。6ヶ月・1年と通って障害者雇用で就労している人が多くいる。カイエン、ウエルビー、チャレンジジャパン、デイ-キャリア、ヒューマニア等、支援事業を見つけるとあとは継続することで、障害者雇用に結びつけることが出来る。障害年金とあわせれば、自立生活も可能となる(私のクリニックでは各社のパンフレットを置いて、それぞれのスタッフがよく相談に乗ってくれている)。

3. 就労継続支援(A型・B型) 給料が出る、サポートもある
 農業を中心とした「ソーシャル大磯」、パレット作りなど様々な作業をする「いなほ」、共にA型ももっていたが、国の方針で援助金が少なく潰れてしまい、現在はB型のみとなっている。障害年金と併せれば、なんとか生活できるレベルまでの収入を得る人もいる。働く中で評価を受け職員になった人もそれぞれ出ている。

4. グループホーム
 個室が中心の生活拠点、朝食と夕食が提供される。日中の活動は自由なところが増えてきた。一般企業が新築経営するものが多くなり住みやすい。ここに住んで、日中は自分に合ったところに通うとよい。

5. クラブハウス・インユー(日中生活介護・障がい者福祉サービス受給施設) 
 いろいろやって年もとったしもう休みたい人、封筒張りなど単純繰り返し作業でなくゆっくり過ごしたい人、精神科病院にはもう戻りたくない人に向いている.安心して過ごせる居場所、昼食がでて、ケースワーカーや看護師、生活支援員が常駐している。グループホームに住んでここに通う人は多い。私は嘱託医をしていて2か月に1回、参加者との話し合いの機会を持っている。素顔で接する楽しさがある。
 
 Ⅳ. 最後に、「ふくしま再生の会」 飯舘村に立ち帰る

 全村避難でかつて7000人だった村民が、避難解除後に徐々に帰村しだしたが、移住者を含め村内で生活する人は、現在は1200人である。若夫婦の多くが避難先に生活基盤を築いて戻れないでいるという現実がある。


 大部分の老人夫婦と核家族。老若・核家族、戻ってきた老夫婦も新しく来た若者や若夫婦も新出発は同じで、広大な自然のもと再生にかかわっている。

 これは人類の原点である。境遇の平等性というハーマンの評価したアメリカ市民革命につながるような、参加者の平等がある。


 必然的に、自然との相互依存、村民同士の相互依存ならざるを得なくなってきている。これも人類の原点である。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」(杜甫)


 そこに「ふくしま再生の会」が活動の母胎をおく。

 そのやり方は「この指とまれ」方式である。

 各自平等で自由を尊重し、村民の尊厳を大切にするやり方である。その中で新しく創っている。ここに東大闘争をこえた地平が切り開かれつつある。

 このやり方は、かつて民青が固執した多数決「民主主義」ではない。多数決とは多数による少数者の無視・差別であった。多数決では医学部不当処分はどんなに不当であっても撤回できなかった。究極には一人で決断し助けを一人で呼びかける「連帯を求め孤立を恐れず」が東大闘争の原点であった。

 すなわち、私のたどりついた精神科医療の原点がここにある。権力にも金にも左右されることなく逆に活用する、個々人の自由と人間の尊厳がここにある。思いを深め、思想を深めよ。思想に飽きたら実践せよ。この「板子一枚下は地獄」の日本で実践せよ。まず、自分を大切にし、家族を大切にせよ。実践はそこから初めて良い。

2021年11月1日            三吉 譲



※1 食べものについての資本主義の害悪に関しては、『食べものから学ぶ世界史―人  も自然も壊さない経済とは?』(平賀 緑 岩波ジュニア新書 2021)、現代人必読文献『人新世の資本論』(斉藤幸平 集英社文庫 2020)
※2 日本特有(これも世界一)の薬害 ①ベンゾ系依存症 ②多剤大量療法については、 『精神科セカンドオピニオン2』(シー二ュ2010、および 『過感受性精神病』居豫雅臣 星和書房 2013)
※3 微生物との人間の共生関係については、『土と内臓』(モンゴメリー+ビグレー 築地書房 2016)












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