ケーススタディ


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精神疾患になるプロセスと回復のプロセス


索引





はじめに

 2014年、福島県警に警視庁より出向した警視が部下を一人責めて自殺させ、もう一人の部下も同僚をかばいきれなかったと、後追い自殺した。

 その警視は2人を死なせて、東京に帰って来た。

 海上自衛隊横須賀基地では、1等海佐が部下を責め続けて、自殺させ、上官は見て見ぬふりをしていた。

 これは、現在も頻発する日本の現実である。

 私の精神医療観を大きく変えた2つのエピソードがある。

1. 1970年代前半、東京都にある精神科病院のF病院勤務時代
老年認知症の男性高齢者が入院してきた。
混乱し、要領を得ない話をする。
しきりに、「妻が浮気している」、「自分の財産が取られる」、と言っていた。
 初めは、私は嫉妬妄想と考えていたが、実は看護者が目撃したのである。

 妻が、彼氏と覚しき男性と一緒に面会に来て、夫に声をかけた後、振り返って彼氏とニタッと笑いあったのである。

私は、それを確かめるべく、面会の場面に立ち会ったら、その妻(夫よりはるかに若く、抜け目のない目をしている)は彼氏(50代の体格のがっちりした精力的な男、抜け目のない目をしている)を連れてきて、夫に声をかけた後、彼氏と手をつなぎ合ってニタニタと笑い合っているではないか。

看護師の言った通りであった。

二人は共謀してその男性患者の財産を乗っ取ろうとしている。

私も、看護師も怒りに震えてその高齢の夫を一生懸命世話をして、退院させたが、その後、音沙汰なし。

その後、妻とその彼氏の男は、その男性患者をどこかの精神科病院に入院させて、死亡するまで待って、二人で財産を手に入れたのは間違いがない。

私達は無力であった。

2 1980年代後半 三吉クリニックにて

 中年の主婦が錯乱状態で夫に連れられて来院。

 恐怖、不安強く、怯えている。不眠、不食の状態。

 主婦が言うには、天井より毎晩覗いている人間がいる。夫が仕事に行って家にいない昼間、泥棒が入ってくる。

 夫はそんなことはない、と断固否定するも、念のため、天井を調べてもらうと、隣の部屋の仕切りに大きく穴が開いてあり、誰かが入ってきた痕跡がある。

 夫はとりあえずその穴を塞いだ。その夫婦は警察に相談したが、証拠がないので、隣人の告発は難しいと言われ、引っ越した。

 主婦は自然治癒した。

①  内因性精神病(統合失調症、躁うつ病)
②  心の闇理論(フロイド流幼児体験病因説)
① 、②共に、社会の病理を問わず、個人の病理に帰する疾患論である。

以上の2つの症例で私が学んだことは、本人たちの話を内因性精神病論やフロイトの幼児体験病因説に基づいて、安易に本人の病理にしてはならないことであった。

もしかしたら、事実ではないかと検証した上でなければ、安易に結論を出してはいけない。

 最近、私の考えと基本的に同じ話を聞く機会があった。

2014年6月6日、講演会(藤沢市に於いて)
仲地宗幸氏(沖縄焼肉料理「キングコング」幹部従業員、精神科作業療法士)

1. 医療が「病気」を作る。なぜなら、問題が本人のみに還元される。
2. 福祉が「障害」を作る。なぜなら、町の中で障害者しか使えない施設である。


三吉クリニックの症例


症例 1

中学2年生 女子

 1984年頃、私は神奈川県藤沢市内の120床の小さな総合病院で、内科、精神科の常勤医として勤務していた。

 ある日、救急車で小柄な中学生の女の子が運ばれてきた。

 全身筋強剛強く、流涎あり。

 神奈川県茅ヶ崎市の某精神科クリニックに通院していて、セレネースを中等量(1.5mg/3錠/日)服用していた。

 薬物性パーキンソン症候と診断して、アキネトン投与。

 湘南中央病院の外来でセレネースを中止し、他剤に切り替え、パーキンソン症状は消失した。

 よくなってみると、色白でキリッとした意志力を感じさせる素敵な女の子であった。

 その後も、セレネースを必要とするような精神症状は全くなく、疎通性もよく、気分障害も思考障害もなく、登校拒否を除いては、ごく普通の女の子であった。

 本人は学校に行かないで、色々活動を始めた。

 危なげなところはなく、安心して見守っていられた。

 母はごく普通の素朴な人であった。

 娘への愛情が感じられる母親であり、娘を見守っていた。

母親は患者本人に対して登校刺激も特にしていなかった。

湘南中央病院の外来で患者本人と何回か会い、1ないし2ヶ月経った時、予約日に本人より電話あり。

落ち着いた声で、「もう薬は飲んでいません。受診する必要がないので、通院は止めます。」

私はこの時、大きなショックを受けた。

本人の言う通りで、精神科に通う必要はない。

茅ヶ崎市の某精神科医と同じく、私も登校拒否を病気として理解していて、見当違いのことしていたのである。

ちょうどその頃、国立国府台病院精神科渡辺位先生が、「登校拒否・学校に行かないで生きる」(1983年11月 太郎次郎社)を出版されていて、私はそれを読んで、恥じ入ったものである。

すなわち、仲地氏が言うように、精神科医が病気を作っていたのである。


症例 2

 患者の父は薬剤師で、薬局を経営しており、神経質な人であった。

 本人は父親似で、高校時代より、過敏性腸炎があり、神経質な高校時代を過ごす。

 東京の大学に入学し、片道1時間半の電車通学を行う。

2003年3月、過敏性腸炎と不安障害で、某精神科クリニックを初診する。

 2006年秋、大学4年となり、卒論のプレッシャーの中で症状強くなり、某精神科クリニックの院長は、「統合失調症の疑いが強い。このままでは悪化し、大変なことになる。」と抗精神病薬を処方し、さらに症状が悪化し、ついに翌年2月、精神科病院のF病院を紹介されて入院。

 2007年2月から3月、F病院に入院し、統合失調症の診断で、ジブレキサ10mg投与され、寝たきり状態となるのみならず、同時に、GOT 376、GPT 349、t-BI 1.3、γ-GTP 73、LDH 398、空腹時血糖 171、白血球 18660、重篤な薬物障害をきたした。

 退院後、ジプレキサを中止し、ルーラン 4mgx1錠 メイラックス 2mg/2錠/日、アシノン2カプセル/日、と減薬するも、寝たきり状態が続く。

 退院後、2007年4月、父のメモによる状態(日中寝ていて、突然「バカヤロー、ぶっ殺してやる」と怒鳴ったりするも、4歳の女の子に変身し、空想の中に入っている。目が飛び出す、角が生える、と言った色々な考えが次々に言葉になって湧いてくる、止められない、という状態になった。)

 父が心配し、愛媛県松山市の味酒心療内科笠ドクターにセカンドオピニオンを求める。笠ドクターによると、「パニック障害がその治療中にいつのまにやら、統合失調症にされた、典型的、犯罪的誤診例」

 笠ドクターの紹介で、2007年9月、三吉クリニック転院。

 患者本人は顔色が悪く、痩せて、ふらついているが。

 華奢な色白の線の細い女性であった。

 私の診断は高感受性と自律神経機能不全を伴ったパニック障害。

 三吉クリニックの処方は、
1 PZC 4mg 1錠 レクサプロ 10mg 1錠 1日1回夕
2 ラックB 1.0 セレキノン 1錠 1日3回 毎食後

その後、徐々に回復し、学生時代より交際していたボーイフレンドと結婚した。

 当初は後に夫になる彼氏と一緒でしか外出できず、常に夫の力でしか生活できない可憐な妻であったので、いつでも脱出ができるように力をつけるように私が三吉クリニックで励ました。

その後、一人でも外出ができるようになり、今は一人でカルチャースクールに通い、この秋は車の免許に挑戦の予定。

患者本人に体力が戻り、すっかり明るくなり、以前の聡明な女性に戻っている。

 精神科病院入退院の頃のことを聞くと、死ぬかと思ったと患者本人が語る。

 この誤診の背景には、中安信夫東京大学医学部精神科助教授の「初期分裂病 星和書店 1990年1月」の影響がある。

 2007年9月の、本人が大学1年より大学4年まで通院した某精神科クリニックよりの三吉宛の紹介状に、「困惑、緊迫気分、自生思考、考想化声、自分の声ではない女性の声が響く、聴覚気づきの亢進があり、統合失調症の前駆症状と考えて」とありました。

 これは、中安氏の初期分裂病の診断基準をそっくり丸写ししていますが、その診断基準そのものに、統合失調症の特異的診断基準がないことは、現在解明されています。(解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 柴山雅俊 筑摩書房 2007年9月)

 すなわち、中安診断基準は統合失調症に特異的な症状ではなくて、解離性障害、PTSD、気分障害等に広く見られる非特異的な症状なのである。

 それにもかかわらず、統合失調症と誤診されて、抗精神病薬が投与されると、病状が悪化して、父のメモにあるような、精神症状が出ておかしくないのです。

 なお、中安氏は、初期分裂病の症例には、統合失調症に準じた薬物療法は無効で、精神療法は有効としています。

 あわせて、心身症レベルの投薬なら可と言っている。

 とするなら、初期分裂病という定義そのものが間違っていて、分裂病前駆状態とするべきである。

 この点を見極めると、中安氏の言うような精神療法と、心身症レベルの薬物療法が可能となる。

 ところが、中安氏が初期分裂病と言ってしまったために、診療現場の不勉強な精神科医が、精神療法もせずに、統合失調症向けの薬物療法を行って、大勢の患者をこの症例のような重篤な状態に追いやっているのである。

 私は、中安氏も中安氏の診断基準を採用する精神科医も、統合失調症そのものがわかっていないのではないか、と疑っている。

 私は、少数ではあるが、統合失調症を発病して、相当年数が経った症例でも、発病直前の出来事を本人に語ってもらい、本人が妄想、現実の混乱した状態から、自分を取り戻し、現実に戻って来る症例を経験している。

 この場合、私は直に聞き出すのは控えて、テラタッパーというEMDR変法の、両手の交互刺激法を使っている。直に聞き出すと、ショックが強すぎて、精神病状態に逆戻りすることがあるからである。

 そこでトラウマが確認されると、たとえ幻聴が活発な人でも、EMDRを行って、治癒した症例を私は経験している。

 私の経験では、発病直前の状態で、精神療法重視する中安氏の治療法は、正しいと考えている。

 ただし、彼の間違いは、必ず統合失調症を発症すると考えた事、及び、この危機的状況は統合失調症を含む様々な精神疾患に進展するとういうことを見抜けなかったことである。

 その意味では、中安氏は統合失調症を始めとする精神障害をわかっていない。

 症例 1症例 2は精神科医が誤診し、しかも誤投薬を行って、患者本人にダメージを与えている。

 まさに、仲地氏の言う通り、「医療が病気を作る」ことの証明である。


症例 元暴走族の青年 S氏

 1973年生まれ。一人息子。父は工場経営。母は専業主婦。両親とも温厚、誠実な人柄。愛情のある家庭に育つ。2001年、関東のS医科大学の精神科より三吉クリニックに紹介され、初診。

 初診時28歳。診断、統合失調症。

S医科大学の投薬
リスパダール 6mg
テグレトール 400mg
アキネトン 6mg 分3毎食後
ピレチア 25mg 睡眠前

病歴
 高校時代暴走族に入る。交際女性ができ、高校を中退するが、その後調理師免許を取得し、大学入学資格検定に合格する。

 精神疾患の始まりは、1998年、交際していた女性と別れて、父の紹介で大阪の工場に技術習得を目的として入社する。

 ところが、技術を習得できず、ついには1日中釘の洗浄をさせられて、会社内で孤立した状態が続いて、同年8月には神経衰弱状態となる。

 同年12月には会社にも行けず、テレビと対話したり幻覚妄想状態となり、その会社より父に連絡が入って、父の部下二人が大阪に行って連れ戻す。

入院歴

 1999年1月から3月まで、関東のS医科大学の精神科に入院。

 入院すると自分を取り戻すが、退院後は家で引きこもりの生活を続ける。

 母が外出させようとすると再発する。

 このような状態で、2001年、三吉クリニックへの通院を開始する。

 三吉クリニックに通院しながら、精神科病院に入退院を繰り返す。

2003年1月から3月。東京都にあるH精神科病院に入院する。

2005年7月から9月。神奈川県にあるF精神科病院に入院する。

 精神科病院に入院すると、錯乱状態は消失するも、退院後の引きこもりは変わらない。

 F精神科病院を退院後は、精神科病院に入院はしないが、自宅で錯乱状態となったり、症状が消失したりを繰り返す。引きこもり状態は変わらない。

 その当時の三吉クリニックの投薬は、
アキネトン 3mg 分3毎食後
リスパダール 4mg 睡眠前
インプロメン 3mg 睡眠前
ピレチア 25mg 睡眠前
サイレース 2mg 睡眠前

 2013年8月、三吉クリニック内でヘルパーの研究会が活動していて、ヘルパーの本人対する自宅訪問を開始する。

 斉藤整体師も合わせて自宅訪問し、訪問整体を行なう。

 三吉クリニックと提携している寿福堂の整体師の斉藤氏も合わせて本人の自宅を訪問して整体を行う。

 再発直前となり、急性期症状が出始めると、本人は繰り返し25歳の大阪での会社員時代の混乱した出来事を話しており、当時受けたトラウマから脱出できない様子が伺えた。

 しかし急性期症状が治まると、何も語らなくなる。

 2013年秋、何回目かの再発症状で、同年11月、テラタッパーによるEMDR療法を始めた。

 一方、同年12月6日より投薬を変更し、エビリファイ中心の処方とした。

 ヘルパーが有効だったのか、EMDRが有効だったのか、エビリファイが有効だったのか、その後錯乱が治り、話す内容がまとまり始めた。

 2014年1月10日、この頃になり以前より始めていたヘルパーとの外出を初めて楽しめるようになった。

 この頃以降の三吉クリニックの投薬は
エビリファイ 24mg 1日1回 朝
アキネトン 2mg 分2 朝食、夕食後
デパス 1mg 睡眠前
ピレチア 25mg 睡眠前

 同年2月4日、就労支援B型作業所に通所を始めた。

 作業所に通所後、アキネトンを中止した。

 同年7月4日、日焼けした健康な青年になった。

 作業所には週4日半日通所していて、作業を楽しめるようになっている。

 本人は作業所での仕事を増やしたいと熱望するが、仕事を増やすとその日は食事もできず、次の日も一日寝こむ状態のため、整体師の斉藤氏の助言を受けて、年単位でゆっくり仕事量を増やしている。

 25歳の時のトラウマ体験は、本人から再び語られることが無くなった。

 本人の診断は、入院したどの精神科病院でも、三吉クリニックでも、統合失調症である。

 統合失調症は外因性精神病ではなく、内因性精神病とされてきたが、果たしてそうであろうか。

 この青年の場合、外因は明らかに発病の要因であった。

 トラウマを克服して、本人は立ち直っていった。

 現代精神医学のクレペリン以来の統合失調症そのものの根拠が問われている症例である。


症例 3

 初診時38歳。現在46歳の独身男性。成人の注意欠陥多動性障害の男性。絶えず人に話しかけて疲れを知らず動いている。幼児期より多弁、多動。父によく叱られていて、父より体罰を受け続ける。

 高校1年生ころより強迫観念、敏感関係念慮等の症状が出て、高校を中途退学。

 その後、精神科病院入院を繰り返し、藤沢市内の精神科病院のF病院で統合失調症の診断で大量投薬を受けていた。

 F病院デイケアに通いつつ、母との共生関係あり。

 母もエネルギーに満ちた女性で、患者本人がバイクの荷台に母を乗せて箱根などあちこちを走り回っていた。

 2006年9月、三吉クリニックに転院。38歳。

 初診時、患者本人には裏表が全くなく、常にその場で思ったことを抑制なく私にしゃべっている。

 本人は背が高く、いい体格をした好青年であるが、顔は幼さを残している。

 本人は母に依存強く、母もついに音を上げてアパートに別居する。

 母がいなくなった後、弟に依存し、夜も寝かさずしゃべり続け、ついに弟も疲労困憊し、倒れて救急病院入院。

 それを機に、弟も別のアパートに避難する。

 父はなにかトラブルがあると、「三吉の野郎」と言って三吉クリニックを罵倒し、患者本人を弾圧するが、私はその父親と一度くらいしか三吉クリニックで会ったことがない。

自宅で父とのトラブルの中で、その父に追い出されるかたちでついに本人も家を出て、グループホームに入所するも、多弁多動止まらず、他の入居者が困って、ついに本人もグループホームの世話役の元高校教師が別のアパートを世話する。

 作業所では、患者本人は常にしゃべって動いており、他のメンバーはパニック状態。

 女性の所長に対して大好きだという気持ちを抑えきれず、拒否されると、怒りを抑えきれなくなり、ついに強制退所となる。

 その後、うつになったり、躁になったり、たいへん落ち着かない状態が続いていたが、大磯ファーム(大磯の元農家が作ったもので、収穫した農産物を市場で販売しているA型作業所)に通所し始めてから、急速に安定する。

 三吉クリニックのケースワーカーが訪問した所、とても良く働くと大磯ファームの職員の評価が高い。

 初めて彼は、社会人より評価されたわけである。

 そこに、通所している女性メンバーに聞いてみると、常にしゃべりながら、常に農作業をしていて、他のメンバーとの多少のトラブルあるも、すぐ解決して、問題にならない。

 朝早く出勤して、働いている。

 F病院で知り合った女性とも順調に交際していて、彼女が20年ぶりにできたのである。

 働き過ぎによる、左膝関節炎や彼女の入院と、日常的な悩みは続いているが、めげず前向きな生活を送っている。


2 「キラー達」

 今の日本には、大人から子供まで、健常者から障害者まで、キラーが溢れている。

 人を食い殺してでも生きようという人間がキラーとなり、自分は生きなくても他の人を生かしたいと思う人で、助けを呼ぶことができない人がキラーに食い殺されている。

 キラー(加害者)の生育歴を見ると、幼少時代にDV家庭に育ち、主に母親のみならず、本人も虐待されて育ち、安心ある生活を送れずに育った家族歴がしばしば見受けられる。(症例 5


症例 4

 29歳の男性。両親は仲がよく、愛情がある。長男として、愛情を持って育てられ、妹、弟とも仲が良い。高校生の時から、ヴァイオリンを独学で勉強して弾けるようになり、大学時代には大学の交響楽団に入ってヴァイオリンを演奏していた。

大学を卒業後、大学院で交際している女性がいたが、後に妻となる女が「私は2番目の彼女でいい。」と言って二人の間に介入してきて、彼はついに、今まで交際していた女性と別れ、その新しい女と交際を始めて5年、某大企業に就職。

東京都から大阪府に転勤して、大企業の寮で生活する。


 そこでは、地元の交響楽団に趣味のヴァイオリンで参加する。仕事に趣味に充実した日々であった。

職場では多少のハードワークがあったが、若さでクリアし、問題にはならなかった。

 2012年3月、後に本人の妻となる女が大学院を卒業して、東京の交通機関に就職する。

 同年3月、両家のみの家族と本人同士で結婚式を上げる。この結婚は秘密裏に行われて、本人の両親が住んでいる実家の近くで生活している叔父、伯母やいとこ等、いざとなれば力のある人達に一切知らされないで行われた。以後の悲劇の原因となったのである。

 同3月、二人で東京にアパートを借り、週末彼は帰省する。

 同年4月、新入社員歓迎パーティーの夜に、患者本人の妻が就職した交通機関の上司と浮気。

 妻の様子がおかしいので、彼は気が付く。

その後、妻は自分の実家に戻り、連絡が取りにくくなる。彼が妻の実家に送った必死の手紙を、妻の両親は妻には見せなかった。

彼が妻に会いに妻の実家に行っても、玄関前で門前払いされた。

彼が妻の実家にストーカー扱いされたのである。

一方妻はこの間、東京の交通機関の新人歓迎会や、同僚との焼肉パーティー等には夫を放置して参加していたのである。

2012年5月の連休中、彼は一人で実家に戻り、自室で悶々として過ごす。

新婚早々の夫婦が5月の連休に別々に過ごすことなど考えられないのだが、彼の両親はその異変に気が付くことはなかった。

2012年8月、お盆休みに実家に戻った彼は妻と会えないままであり、彼の両親が初めて事情を知る。

2012年9月、東京に戻って来た彼は、電車に飛び込もうとして思いとどまる。

彼は神奈川県の実家に電話をして、無一文で実家に戻る。

実家の両親は、「だいじょうぶだ」と言う彼の言葉を信じて、なにもしないで彼を大阪府に送り出し、9月の連休中、彼は大阪府の社宅に戻り、早朝縊死する。

彼は産業医や市井の精神科クリニックに1~2度相談したことがあるも、中断している。

問題を本人の病理として考える精神科医は、この様な状況では無力である。


症例 5

 短期大学卒業後、20歳の時に会社に就職。会社の仕事の中で知り合った男に強引に交際を強要され、5年間交際。その男は彼女に対して、自分はその会社の創業者一族の御曹司(創業者一族の御曹司であるというのは嘘である)である、自分との交際を拒否すると君は解雇されるのみならず、君の上司も左遷されるぞと脅迫する。そのことを本人は同僚にも上司にも相談しなかった。1986年、25歳でその男と結婚。今まで、共学の高校から女子短大まで男性との交際の経験がなかったその女性は、男性との交際はそんなものと思った、とのことである。結婚後うつ状態が発症。元夫のドメスティックバイオレンスあり。

 元夫帰宅後、夜11時より午前2時まで連日大声で怒鳴られ、詰問される。

 連日3時間壁を叩いたり、家具を蹴りあげたり、本人朦朧となって、最後は自分が悪いと謝罪し、自責となる。

 夫婦としての性関係は最初から全くないままであった。

 1回だけ本人より誘ったら、売女呼ばわりされ、それ以降本人から誘うことはなかった。

 交際中から、結婚して離婚するまで元夫との性交渉は一度もなかった。

 1999年3月、実家に逃げ帰る。

 本人は実家に逃げ帰り、10年間恐怖、不安の中、閉じこもり状態で生活する。母が傷心の彼女の世話をよくする。

 2008年12月、10年ぶりに元夫より手紙が来て、離婚してもよいと言ってきた。

 翌2009年1月、神奈川県立かながわ女性センターで相談し、職員に勧められ、同3月かながわ女性センターの精神科嘱託医の私の診察を受ける。

 本人には恐怖、パニック、解離性障害とともに、鬱病の症状が出ていた。

 2009年4月、三吉クリニックを初診し、薬物療法を始める。

 両親とかながわ女性センターの職員、および三吉クリニックのケースワーカーのサポートで、徐々に軽快し、パニック発作を起こしながらも、弁護士の支援を得て、離婚裁判を継続し、2013年に離婚成立。

 1審では裁判官は元夫にだまされて、元夫を支持して、本人に慰謝料の支払いを命じた。

 2審では、元夫の責任を認め、本人の支払いは半減された。

 2013年に離婚成立。

 49歳でようやく自立へ歩み始めた。

 同年、長年師事していた茶道の師匠が亡くなり、後継者となる。

 2014年、長年本人を支えてきた母が死去し、泣きながら最期まで看取る。

 そこまでできた自分を「よく頑張れた」と評価できるようになった。

 元夫が育った家庭は裕福であったが、義父(元夫の父)は日常的に義母(元夫の母)を侮蔑し、「お前の作った食事はまずくて食べられない。」と家で食事せず、義母と息子(元夫)を連れて常に外食していた。

 義母に対するモラルハラスメントが日常化し、義父は常に義母を支配していた。

 義母は働いていたが、仕事を優先して高熱の息子(元夫)を看病もせず放置するような母親で、元夫は愛情に飢えて成長した。

 義母は仕事が逃げ場であり、息子(元夫)に対して愛情を注ぐことはなかった。

 結婚後、元夫は本人に対して子供時代に飢えた愛を無限に要求し、彼女はすっかりエネルギーを吸い取られたという。

 元夫はDV家庭に育ち、愛着障害があるのだと彼女は岡田尊司著「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 光文社 2011年を読んで納得したとのこと。

 幼少時に児童虐待されて育った人間は、成人してDVの加害者となる確率が高くなる。

 悪は連鎖するが、しかし全員ではない。

 悪の連鎖を断つことは可能である。

 どうしたらそれが可能であろうか。


症例 6

 中年主婦。うつ状態で初診。夫と乳児の三人生活。本人は公務員で育児休暇中。夫とは離婚話が出ていて、夫は事業を起こして単身生活をしているが、夕方妻の所に押し入り、夕食を食べた後、明け方まで妻に説教をしている。

 夫は強迫性パーソナリティで、うつ状態の原因は夫にある。
 私のこの説明に、夫は激昂。

 自分でやり方を変えてみると激昂。

 私が、妻には夫を家に入れないように話す。

 その後、夫が三吉クリニックに来院し、妻と別居して、別の仕事に就いていると、穏やかに語られる。


「学校にて」


症例 7

 20代の女性。大学を卒業後、小学校教員となる。岩手県より出てきて、神奈川県の小学校に就職する。新人教員のままで、崩壊学級の担任とされる。半年間、孤軍奮闘するも、うつ状態発症。三吉クリニックを受診する。新人の秋より、翌年3月まで小学校を休職。その年の4月、担任を外される形で復職するも、本人はその年に小学校を退職し、岩手県の郷里に帰っていった。
 発病から復職まで、小学校の校長と管理職からの三吉クリニックへの連絡一切なし。

 本人曰く、「神奈川県の人は食事の食べ方がガリガリと食べている。」

 彼女はその後、岩手県で結婚された。


症例 8

50代のベテラン男性小学校教師。小学校5年生のクラスの担任となった頃、児童数人の集中攻撃を受ける。校舎の塀に、本人を名指しで、個人攻撃の落書きをされる。

ついに耐え切れず、うつ病発症。

この症例でも、校長等からの三吉クリニックへの連絡や協力依頼は一切なかった。


症例 9

 2013年9月、50代の女性がうつ状態で三吉クリニックを初診。

 私が事情を聞くと、本人の次女が2013年4月に東京の某私立大学に入学した。

 中学生からテニスをやっていて、入学した大学のテニス部に入部する。

2013年8月、テニス部の合宿から途中で自宅に帰って来て、「いじめを受けた、死にたい」と訴えた。

 その日、本人は娘の訴えを聞くだけで、用事があって自宅から外出した。

 家に帰ってみたら、娘は不在で、自宅の近所のビルから飛び降りて自殺していた。

 母子家庭の世帯主の本人は、当時交際中の男のことで頭がいっぱいだったと、涙して語られる。

 本人の弟はテニス部の学生達を裁判に訴えたらと言うが、本人はその気になれない、と言う。


症例 10

 2014年初夏、母親と共に小柄で精悍な高校2年生の男性が三吉クリニックを受診する。

 彼は中学校の時より、空手だけの生活を送っていた。

 その高校は、空手で全国大会で優勝した名門校で、彼はその空手部に入部した。

 ところが、空手部の部員に空手の防御服を着用したままで殴り蹴られる集団リンチを受けるも、外傷の証拠はなし。

 高校そのものがいじめをした学生とグルとなっており、ここは闘わず、転校するのがベスト、との方針で、本人、家族も一致する。

一件落着する。


症例 11

 女子私立高校学生。(幼稚園、小学校、中学校、高校と進学できる一貫校)

 学生に出す宿題が大変多く、それに追われた生活を幼稚園から送ってきた。

 大変真面目で、常に過剰適応してきた。

 小学校時代からの友人は、全員他の高校に移っていった。

 後は要領がいい学生が残っていた。

 中学校から宿題の量が増え、中学3年生の頃より無気力となり、宿題が手につかなくなる。

 2013年4月、高校1年生の時に重いうつ状態となる。

 同月、三吉クリニックを受診し、極度のうつ状態であったため、私が診断書を出して高校を休学する。

 自宅では、のんびり楽しく過ごしており、同年9月、別の私立高校に転校する。

 転向後も過剰適応は変わらず、大変真面目な学生であった。

2014年4月、再度の重いうつ状態となり、転校した高校を休学する。

同年6月、うつ状態は少し軽快し、韓国への修学旅行に参加し、楽しく過ごす。

修学旅行より自宅に帰った翌日の土曜日に、友人との休日の約束をうつ状態のために果たせなくなり、うつ状態が重くなる。うつ状態が重くなったため、三吉クリニックで8月いっぱい自宅静養の診断書を出す。

これは早まった処置であった。

私は学校の夏休みが近いので、このまま休めばよいと安易な方針を出したのであるが、本人は非常なショックを受けて、更に病状が悪化して、自宅で首をつろうとするような自殺企図を行なうようになった。

この段階では診断書でなく、本人も含めた家族全員の話し合いを設定すべきであった。

自殺企図のすぐ後に、単身赴任の父親が三吉クリニックに始めて来院して、「再発は想定外である。」と言い、インターネットを駆使して別の病院を探し、転院していった。

その後、転院先の病院より、「自己愛が強い母親に養育された結果、一卵性母娘となり、人格が不安定のようであります。しばらく、母娘を分離し、母親に心理教育を行う方針としました。」

私の分析は、母親の責任ではなく、過剰適応で生きようとしている限界に突き当たった女子高生の成長途上の課題である。

 キーパーソンは父親であり、三吉クリニックと父親とのコンタクトがそれまでとれていなかったことが、治療が中途半端で終了した原因であろう。


症例 12

 2006年4月から5月にかけて、13歳の女子中生が6人の女子中学生によるいじめを受けた。

 いじめのきっかけは、いじめを受けた女子中学生が他の女子生徒の服を盗んだと、いうことであったが、実はそれは勘違いで、その後服は別の場所から見つかったのである。

 その後、その女子中学生にPTSDが発症し、自宅から外出できなくなり、自傷行為等が頻発した。

 2006年12月、両親に連れられて三吉クリニックを初診。

 PTSDと共にうつ病を合併していた。

 その後、中学校側は、非を認めて教員がその女子中学生の自宅を訪れ、補習教育を行った。

 その女子中学生は私立高校に入学し、ダンス部に入り、一人で自宅から外出ができるようになり、以前より大分落ち着くも、不安定さは残っていた。

 2009年8月、自宅の2階から飛び降り、骨盤骨折、肺挫傷により救急入院した。

 その後、三吉クリニックから別の病院に移っていった。

 三吉クリニックでこの患者のトラウマとそのフラッシュバックに対し、薬物療法だけでトラウマに対する治療をやっていなかった。

 私はまだEMDRを修得しておらず、EMDRができる他の心理療法士を探して頼むのがよかったが、私はそういう治療法をその当時は知らなかった。


(職場にて)


症例 13

 夫婦二人だけの家庭。

 2012年3月、神奈川県立かながわ女性センターに妻が相談に来る。

 妻は重度のうつ状態になっていた。

事情を聞くと、夫は毎日5時間の残業で、残業が月100時間続き、報告書や苦手な英語で海外の渉外の仕事をさせられる中で、2011年11月より、うつ状態となり、自宅静養に入っていた。

 2012年4月、夫が妻に連れられて三吉クリニックを受診する。

 前医の紹介状によると、夫は新型うつ病ということであったが、明らかに過労による大うつ病で、その前医はそれが治療できず、夫は自暴自棄になっており、妻も巻き込まれて、うつ病を発症したと判明する。

 三吉クリニックで夫の治療をやり直し、妻は食事や同伴の外出等を熱心にされ、2012年6月夫は会社でリハビリ勤務後、職場復帰。

 夫はその後順調で、趣味のテニス(上級クラス)を再開されている。

 妻は三吉クリニックで抗うつ剤による治療を勧めるも、拒否した。

 妻は、「夫は自分(妻)で治す。夫のうつ病が治れば、自分も治る。」と言い、そのようにやり遂げた賢く、力のある妻であった。


症例 14

 35歳の女性。短期大学卒業後に、事務職2年を経て、保育士の専門学校に入り、保育士として6年間勤務のベテラン。

 2011年4月より、横浜市の保育所の職員となるが、当時横浜市には保育所が少なく、市内に待機児童があふれていた。

 保育所の仕事は大変忙しく、連日残業で過労が続く中で、うつ病発症。

 2012年4月より7月まで自宅静養を行ない、同年8月に横浜市の保育所に復職。

 復職後3ヶ月は定時勤務で、残業なし。

 徐々に残業もこなせるようになり、その後順調でうつ病を再発していない。


症例 15

 工場勤務28年間の50代の技術者男性。

 会社は中小企業で、2011年8月に工場から一人退職して、仕事量が激増する。

 2012年3月より、工場の仕事量が2倍以上となるも、人員は変わらず、その上、同年4月、本人が働いている会社が他の会社と統合され、ついに、本人はうつ病を発症し、同月三吉クリニックを受診し、病休に入る。

 会社の内規は、3ヶ月で復職しないと退職となっており、本人は不安状態でぎりぎりの所でなんとか復職される。

 その後うつ病を再発していないが、若干の貯金もあり、2015年3月には60歳にはならないが、定年前に退職して、四国に戻り高齢の両親と一緒に生活する予定。

 実家には小さいながらも田畑があり、両親は農作物を今も作っている。


症例 16

 30代の男性。湘南の中規模の企業のベテラン金型技術者。乱暴な上司が配属されてきて、バカ呼ばわりされたり、首根っこを掴まれて怒鳴られる等のパワハラを受ける。

2014年5月、湘南中央病院心療内科の私の診察を受ける。

 湘南中央病院のケースワーカーが本人と会社との間に入り、別の職場への配置換えを要求するが、会社は受け入れず、元の職場に戻るようにと言う。

 本人はその上司がトラウマになっており、復職に踏み切れない。

 2014年10月には6ヶ月の病休期間が終わり、6ヶ月内に戻らないと退職の内規がある。

 本人はその会社を諦め、同業他社に転職する。新しい職場の同僚は、本人を暖かく迎え入れ、いじめを行なう上司もいなくて、働きやすい職場であった。

 前の会社は有能な社員を失ったのである。


症例 17

医療系の社団法人の男性事務員。2010年4月、28歳の時に三吉クリニック初診。

 大変真面目で、かつやさしい性格。自己表現苦手。

2007年にその医療系の社団法人に就職後、2年間は順調なるも、2009年11月、新しい事務長が来る。

 女性の先輩がいて、その女性と新しい事務長は仲が良かったが、その女性は本人に対しては些細な間違いを叱責し、罵倒すること続けていた。

 事務長はその女性に対して指導することは全くなく、本人は事務長のサポートを全く受けないまま、うつ病が発症した。

 2010年3月より、病休にいたり、同年4月、三吉クリニックを初診。

 同年8月22日まで自宅静養後、その社団法人にリハビリ勤務し、病休7ヶ月目の同年9月13日に復職する。

 なお、例のいじめを行った女性上司は定年退職をしており、いじめをする人物はいなくなっていた。

 復職後自己表現も徐々に出来るようになり、仕事も任され、持ち前のまじめさ、優しさを生かして、職場での本人の評価も登りつつあり、自信が回復している。


症例 18

 大学卒業後、市役所勤続30年のベテラン事務職員。E市長時代に、その市役所にはうつ病が多発した。

 市の精神科嘱託医によると、数百人がうつ病になったと言われる。

 私の所に、うつ病で通院していた市役所職員のいる課では、5人中3人がうつ病となり、うつ病者どうして助け合いをしているとのこと。

 E市長のやり方は、自分の命令を聞かせるのに、市長と助役3人の4人で市長室に呼び込んで、取り囲み恫喝、罵倒している。

それでうつ病となった職員がいる。

 当時、神奈川県立の保健所は市に統合されたばかりであった。

  そのベテラン事務員は大部分が保健師の保健所に移動させられた。

 その新しい職場の上司は、女性主幹であり、「そんなことで通るか。何を考えてやっているんだ。」とか感情的な叱責を受ける。

 職場でも職場の同僚達に無視される感じで、飲み会に誘われることもなくなった。

 そういった状況下でうつ病を発症。

病休3回

1回目の病休

2010年11月から、2011年1月。

2回目の病休

2012年5月から同年7月

3回目の病休

2013年5月から2014年2月

 その後、リハビリ勤務を経て復職され、今のところ順調である。


症例 19

 D氏 55歳 男性 うつ病の病歴 10年 市役所職員

同胞2子の次男に生まれ、大学卒業。

会社勤務を経て、市役所職員となり、女性と結婚。

 妻と男の子供二人の4人家族。

 本人の持病に糖尿病あり。

1995年、職場のストレスでうつ病を発病。

 以後復職するが、10年間の間にうつ病の再発のために計8回の休職を行ってきた。

1回目の休職 9ヶ月
2回目の休職 2ヶ月
3回目の休職 4ヶ月
4回目の休職 4ヶ月
5回目の休職 3ヶ月
6回目の休職 3ヶ月
7回目の休職 3ヶ月
8回目の休職 3ヶ月
この間妻は、二人の子供を連れて離婚に踏み切り、患者一人の生活となった。

栄養状態も悪化して、風邪をひいてはうつ病の再発を繰り返していた。

ついに、うつ病発病後11年後の2006年より、再発しなくなり、安定した生活に入った。

 本人の次男も戻って来て、父と子で平和に暮らすようになった。

 食事も一緒に作るようになっている。

 その後薬も不要になり、通院も終了した。


症例 20

郵便局員。
2009年10月5日三吉クリニックを初診。初診時46歳、現在50歳の男性。

診断 うつ状態と妄想性障害

郵便局に勤務して、22年。

2008年9月、勤務移動あり。

職場が小泉元首相の郵政改革中で、ギスギスした状況であった。

以前は草野球チームに参加して生活を楽しんでいたが、今は趣味がない。

本人の訴えは、職場でも家でも監視されている。

自分のプライバシーが職場でも町でも漏れている。

みんなが自分のことを知って噂している。

この症状は2007年8月頃より出現。

本人を非常に愛している母は心配症で、常に本人を見ており、職場でも常に監視されて仕事をするような状況で、あながち、完全に妄想とは言えない。患者本人は神経過敏の状態になっていた。仕事はなんとか続けていた。

近医に通院し、症状経過以後、2008年3月、治療を中断して再発。

2008年5月から、10月、別のクリニックに通院するも、症状が悪化し、2009年10月、三吉クリニックを初診。

現在の投薬は
① レメロン 15mg 1錠 一日1回 夕食後
② デパス 1mg 1錠 睡眠前
③ エビリファイ 6mg 1錠 1日1回 朝

初診時のうつ状態、妄想状態は回復して、症状がなくなり、勤務継続中。

ただし、趣味は復活していない。

妄想性障害を統合失調症として誤診、誤投薬すると、病状が悪化して仕事ができなくなる。

妄想性障害は仕事ができるので、仕事を続けながら治療するのがコツである。

本人に対する処方はごく少量にとどめて、仕事を何とか続けられるように援助していくと、予後が良くなることが多い。


症例 鍼灸師

 千葉県千葉市の高校卒業後、会社勤務を経て、鍼灸専門学校を卒業して、2001年5月鍼灸師となる。

病歴
 2003年5月頃、悪口が聞こえるとS精神科病院通院。
同年9月まで医療保護入院となる。外来に通院するも2010年9月中断。同年11月幻覚妄想状態となり、2010年12月よりM精神科病院に入院。入院前の2010年9月に三吉クリニックを受診し、アスペルガーの診断を受けた。その後M精神科病院の精神科医により、同病院に医療保護入院。
①2010年12月~2011年2月
②2011年2月~2011年12月 2回医療保護入院。

性格
昔から集団苦手、頑固、無口、妥協しない。
アスペルガー症候群
2012年1月25日 三吉クリニックを再診。
M精神科病院の医療保護入院に極度の不信となり、告訴の準備をした。
(M精神科病院が5分の面接で統合失調症と診断し、医療保護入院させたなど言い分はもっともである。)

M精神科病院の診断は、統合失調症CP換算1100mg
①ジプレキサ10mg 2T
②エビリファイ12mg 1T
③ロヒプノール2mg 1T
 ベンザリン5mg 1T

 三吉クリニックは本人の告訴の準備には非協力とした。やってもいいことはないと本人を説得し、本人はしぶしぶ了承する。

 三吉クリニックにおいてジプレキサを5mgずつ減量するこことし、ジプレキサ15mgの段階でエビリファイ24mgとする。

2012年5月ジプレキサ0mgとする。エビリファイ24mgを維持する。

2012年8月にエビリファイ12mgとした。

2012年10月6日の投薬
①エビリファイ12mg 1T
②レンドルミン 1T
 レスリン25mg  1T

本人への説明は
①アスペルガー症候群
②双極性障害の躁状態
予防薬としてエビリファイ使用

2013年5月より、3ヶ月に1回通院中。
告訴はあきらめ仕事をしている。

アスペルガー症候群の人らしく、実にまじめな仕事ぶりである。

ジプレキサを中止する時に、いったんエビリファイ24mgとし、妄想症状による行動を防いだ。

その後本人の安定を見極めて、エビリファイ12mgを維持量とした。

本人も了解し、服薬を続けている。


症例 21

男性郵便局員(パート)
 
幼児期より、胃腸が弱く虚弱体質であった。

 15歳で三吉クリニック初診。胃腸虚弱。自律神経機能不全を伴う、神経症圏の少年であった。

 その後、定時制高校卒業後、郵便局にパートとして就職する。

 真面目な勤務で、常勤になることを勧められたが、本人は辞退する。

当時は、小泉元首相の郵政改革で、職場にうつ病が多発し、自殺者も続いていた。

 仕事以外は絵を愛し、展覧会に行くこと、絵を収集し、買うこと、買った絵を自分部屋で楽しむこと、画家と展覧会で知り合って、交際することを楽しみとしていた。

 ところが、同僚にアスペルガー症候群と推定される青年が就職してきて、彼に絡むようになり、ついに一方的に暴力行為に出るようになった。

 その同僚は、父親と一緒の職場で働いていた。

 上司に訴えるも、上司は全く動かず、トラブルが続いていた。

 労働組合に訴えるも、労働組合は全く動かなかった。

 2011年6月、PTSDとなり、出勤不能となり、休職に至った。

しばらく、寝たきりであったが、2014年になってようやく回復し、展覧会に行ったり、三吉クリニック美術クラブを楽しみにしている。

 最終的に退職し、エネルギーを貯めている状態である。

 しかしそれは何年も続き、未だに出口は見えていない。

 2018年4月、三吉クリニックの「お互いさん会」の新年会に出席し、古くからの友人と歓談し、ワインと食事を楽しみ、カラオケに行けるようになったところである。


症例 22

女性新人会社員 29歳
 
両親、同胞4名の円満な家庭に育つ。


気質
内向的、真面目、几帳面、優しい。

 高校卒業後、様々な所でアルバイトしたり、友だちと遊んだり、ショッピングや食事が趣味で、面白おかしく過ごしていた。

 28歳で彼氏ができ、気合を入れて就職する。

 1月11に、就職2日目、商品を入れていた段ボール箱を貼ってあった伝票とともに捨ててしまい、女性の上司に厳しく叱責を受ける。(段ボール箱の処理についての指導は全くなかった。)

 1月12日に休む。

 1月13日出勤。

 1月14日に会社を辞めたいと女性の上司に言うと、その女性上司は、「仕事をなめてるの。これからの人生、どうなるかわからないよ。」と恫喝される。

 伝票は幸いにも回収できたが、本人は強いショックを受けて、自宅に帰り家族に事情を話した。

 1月15日、本人がその女性上司に盗聴されていると言うようになった。

 1月16日に近所の心療内科を受診し、レキソタン2mg2錠、パキシルCR12.5mg、マイスリー10mgの投与を受けるが、ボーっとしてふらつく。

 この服薬を始めた頃より、自分の身の回りのこと(入浴、洗顔、着替え、排泄、食事等)が急速にできない状態になり、母と姉がつきっきりで世話をしていた。

 1月18日、父が会社に行って退職手続きをとる。

 1月20日にこの心療内科の処方薬の服薬を中止する。

 1月21日に三吉クリニックを受診する。

 受診時はボーっとして一言も自分からは喋れず、母が代わりに話した。

 パジャマを含め、一切の着替えができない、食事も自分からはできない。

 ただし、自発行動はできないが、介助をすると、指示により食事や歩行ができて、この時の動作はスムーズである。筋強剛はなく、振戦もない。発熱も発汗もない。

 家族には私は次のように話した。「昏迷状態で自発行動はできないが、周りの言うことは全てわかっている。安全を確保して、本人のプライドを尊重して、身体介護しましょう。」

 自分の部屋に女上司が盗聴器を仕掛けている、と両親に話していた由。

 精神病性の昏迷状態の可能性があると考え、三吉クリニックでジプレキサ 2.5mg 1錠、リフレクス 15mg 1錠を処方する。

 少し回復したに見えたが、そこで、1月25日にジプレキサ 5mg 1錠に変更したところ、発熱、全身発汗、筋強剛が出現し、ジプレキサ服用を止めたところ、突然の興奮で自宅のマンションの窓の外に飛び出ようとしたり、すごい力であった。

 母は必死にそれを止めて、ジプレキサの服用を再開した。

 2月1日、三吉クリニックで本人を診察。両眼が上転するも、上肢に筋強剛はなく、振戦もなく、発汗もない。体温は37度台。脱水あり。

 ただし、この間の経過から、悪性症候群の可能性を疑い、提携しているT胃腸科を紹介し、緊急に血液検査をした所、悪性症候群ではなく、薬物性パーキン症状であったと診断した。

 ジプレキサを中止し、リフレクスのみとしたが、その後状態はさらに悪化し、拒食、拒薬の状態になった。

 2月12日、薬を中止したままである。自発行動はないままであるが、時折食べている。お菓子とか果物を食べる。

 夜はいびきをかいて寝ていて、興奮行動はなし。

 この間、本人の母から届いたファクシミリの内容を掲載する。

 『2月2日 昨日以前も尿は一日一回ほどしか出ていません。昨日、朝はたしかではないのですが昼から尿がでていません
下痢が少しづつ出ているだけです
水分は飲みますが、このままで大丈夫でしょうか?

2月13日(木)
  夜から飲み込みがあまりよくなく食事も時間をかけて1回とったのみ 水分のとり方が少ない。 (熱は37.2度。)

2月14日(金)
 朝 額に汗。水分を与えても飲み込めない状態。 しばらくして(マッサージをして)お茶を50ccのみ。少しおいてポカリを150ccはしっかり飲み込めた。午後3時頃昼食を時間をかけてとる。夕方、6時30分に炭酸ジュースを50ccのむ。

2月14日(金)の夕方以降 飲み物を口の中に入れてもためるだけでなかなかのみ込めない 口の中に2時間ほどそのままで少しのんだくらい。

 夜になっても食事どころか水分がとれず心配にな(り)、近くの総合病院へ(23:30)行き、血液検査を受け、軽度の脱水ということで点滴を受けて来ました。

2月16日(日)
 朝の状態は口の中に唾液がたまったままでのみこめない。』

 2月18日に、母のみが三吉クリニックを受診。嚥下障害が続いていて、脱水がでているが、本人は薬は一切受けつけないので、エンシュアリキッド500cc分2のみ処方する。

 本人は食べる瞬間もあって、体のこわばりがとれて、ふっと力が抜けることがある。

 本人は何も言わないが、涙を流している。

 母が私に整体はどうかと聞かれる。

 害はない、益はあるのでやってよいですよと私は答えた。

 私は母に、入院して電気ショックが必要かも、と言うと、涙を流された。

 私が母に、F病院に入院の準備をしていると話した。

 お父さんが公務員なので、公務員系の病院にあたっても良いのではないかとアドバイスした。

 そこで、私が精神科病院入院を準備した。

 ここで、三吉クリニックからF病院への紹介状を一部訂正して掲載する。

 『F病院 T先生御侍史
 本日、相談した方の診療情報です。
 〇〇さん 1984年生まれ。女性。29歳。
 家族構成

気質
内向的、まじめ、几帳面、優しい。

 高校卒業後、様々なところでアルバイトをしてきたが、昨年11月、彼氏もでき、本腰で就職を考え、本年1月10日就職。1月11日にミスを犯し(指導がなかった。)上司の女性に叱られ、1月12日に休む。1月13日出勤。1月14日、その上司に退職を申し出ると、再度恫喝される。その後、自分が意地悪されたその上司が盗聴器を仕掛けているという内容のことを家族に語る。

 不眠になり、食事もとれなくなり、1月17日近くの心療内科S医院を受診し、レキソタン2mg、2錠、分2、パキシルCR12.5mg 1錠 1日1回夕食後、マイスリー10mg 1日1回 睡眠前の服用を開始した。

 その後昏迷状態に入り、衣服も着られなくなった。

 1月21日、三吉クリニックを受診。発語を含めて自発行動(-)。

 昏迷状態と診断し、ジプレキサ2.5mg1錠、リフレクス15mg1錠 1日1回夕食後に投与する。

 1月25日 昏迷状態変わらず。ジプレキサ5mg1錠、リフレクス15mg1錠、1日1回 夕食後に投与する。

 ところが、発汗、筋強剛、37.5度の熱発でたため、母が薬を止めたところ、1月28日本人がマンションの6階の自宅のベランダに出て、飛び降りようとしたので、制止して服薬再開。

 2月1日三吉クリニック再診時、両眼上転し、筋強剛、振戦はなく、体温は37度台で、脱水あり。昏迷状態は変わらず。

 悪性症候群を疑い緊急検査するも、異常なし。

 2月3日、昏迷状態変わらず。

 2月12日、昏迷状態変わらず。

 2月13日、嚥下障害が加わり、状態が悪化する。

 このままでは外来で薬を使えないまま、昏迷状態が続く可能性があり。

 入院を検討しました。

 よろしくご検討下さい。

 2014年2月13日 三吉クリニック 三吉譲』

 文献を調べたところ、本人は昏迷状態ではなくカタトニーであり、抗精神病薬は無効で、薬物はワイパックスのみ有効。

 カタトニーは統合失調症圏は5%以下で、気分障害は13~31%で、4分の1は脳炎等の器質性精神障害であるという。彼女のカタトニーはトラウマのショックによる心因性精神障害圏の病気であり、原疾患が何であるかを問わず、身体介護とともに、治療法はワイパックスが有効だが、ワイパックスがダメな場合は、電気ショックが特異的に有効とされていた。

 私の不勉強で、後手後手に回った症例であった。

(その後の経過)
 1年2ヶ月後の2015年4月、本人の弟が母とともに三吉クリニックを受診。弟は他の会社で2人の上司のパワハラにあった。2人の上司がそれぞれ別の指示を出した。片方の上司は、こうやれ、と言い、別の上司はそうやってはいかん、ああやれ、と言う。心労の果てについに会社で体が痙攣し、硬直して椅子から立ち上がれず、動けなくなった。姉と同様のショック状態。(亜昏迷状態であったか。)
 姉のことを見ていたため、本人は病院を受診せず、自宅静養して、母と2人の姉が世話をして、回復された。
 職場の環境調整もできて、復職したいとのことで、三吉クリニックで復職診断書を出して、復職していった。

 姉のその後は、三吉クリニックで紹介されたF病院は受診せず、母が以前ぎっくり腰で受診したことのある、静岡県の整体師の所に連れて行って、整体治療を受けたところ、すっかりよくなった。

 今は母と共に家事をしている。

 1年2ヶ月前のことはよく覚えていて、「薬飲んで、頭が混乱して、言葉が出せなかった。」とのこと。

 母と弟に私は言った。「電気ショックをしなくてよかった。電気ショックで表面上は良くなるが、記憶が失われて、なぜこうなったを理解することができず、危険を避けられない。

 また仕事をしてひどいいじめにあい、再発する可能性が高い。

 記憶があるので、今後危険を避ける事ができる。

 弟も姉も病院に行って間違った治療の道に入る可能性があったのである。

考察
 上司により強いショックを受けた後、彼女に何が起きたのであろうか。本人は回復した後、よく覚えていて、「薬飲んで頭が混乱して言葉が発せられなかった」と言う。確かに薬は悪影響を与えていた。ただし薬の副作用でこうなったわけではない。
(1)自発行動の完全な喪失
(2)嚥下運動の強い障害
(3)脱水の持続進行ー生命の危険
この(1)、(2)、(3)は自然経過である。
(4)発熱、発汗、筋強剛 これはジプレキサによる副作用で、ジプレキサの服用中止により消失。
(5)1月25日、突然の精神運動性興奮出現。これは、ジプレキサ5mg、リフレクス15mgを中止した夜のみ。
(4)、(5)は一過性であり、その後出現していない。
(6)脱水は進行するも、ふっと力が抜け、食事を食べる時もあり。
(7)整体により回復。
(6)は自然経過である。
(8)上司により強いショックを受け、全身の硬直を生じた弟の例 自然治癒した家族歴あり。
(1)、(2)、(3)、(6)、(8)により、カタトニア(緊張病)の1亜系が考えられる。カタトニアは自然治癒する症例が従来より報告されている。自然治癒を促進したのは介護援助した家族と、整体治療であった。医療ではなく、自宅で治癒した症例である。
参考文献

カタトニア 臨床医のための診断・治療ガイド
Max Fink、Michael Alan Taylor 著
鈴木一正 訳
星和書店 2007年
p74-75 良性昏迷 症例3.15

今日の精神疾患治療指針
樋口輝彦、市川宏伸、神庭重信、朝田隆、中込和幸 編集
医学書院 2012年
「緊張病 catatonia」 大久保善郎
p89-90


クリニック内 キラー事例

 精神障害は家庭、学校、職場等対人関係の場で多くは発症する。

 そして、紆余曲折を経ながら、ついに本人は精神科病院に収容され、それを何回か繰り返した後、最後は家族に見捨てられ、あるいは家族が高齢化して死亡して孤独の身となり、ついに本人も精神科病院、あるいは、隣接する同じ経営者の老人ホームで死ぬ。

ここには、日本独特の被害者としての精神障害者がいる。(髪の花 小林美代子 1971年 講談社)

 しかし、被害者でありながらも、加害者である精神障害者もいる。

あるタイプの精神障害者は、被害者にも加害者にもなりうるのである。


症例 23

 M 30代 男性

 家族、友人もいなく、精神科病院のK病院に長期入院していた。

 私がその精神科病院より退院させた。

 退院後引き取る家族がいない場合、私の援助がなければパワーがあるその男性も退院ができなかった。

 精神科病院とは、一旦入院すると自力では出ることができない、蟻地獄のようなところである。

私はMの父とは、Mが精神科病院のK病院に入院中にK病院で一度会ったことがあるが、父からのMへの援助は一切拒否した。

入院中に顔見知りの入院している女性患者がいたが、その女性が退院した後、執拗に交際を求め、その女性は恐怖、不安が強く、精神障害が再発して自殺した。

その後、三吉クリニック通院中の別の女性にこのMは「三吉先生が許可した。」と嘘を言って交際を迫り、安定剤を飲ませた後で性関係を持ち、その女性は抑うつ不安障害レベルより、精神病圏レベルまで病状が悪化した。

さらには、Mは長年別居して連絡の途絶えていた母と姉を探し出し、母と姉を執拗に責めて、精神科病院に入院させた。


症例 24

30代の女性 S
薬物大量服薬で湘南中央病院に入院し、退院後は三吉クリニックに通院していた。そこで、40代の男性Aと顔なじみになり、同棲。
Aを自殺に追い込む。

Aはうつ病で休職していたが、夜な夜な働け、働け、とこのSという女性に責められたようである。

その後すぐに、30代の男性B宅に転がり込み、同棲。

Bが自殺する。

男性Bは長年引きこもりの生活をしていたが、優しく穏やかな青年であった。

男性Bの自殺の原因は不明。

その後、Sは転院していった。

その後偶然道端でSと会った三吉クリニックに通院している上記男性Aと男性Bの共通の友人であった患者Cによると、Sに反省や自責の態度は全くなかったそうである。


症例 25

精神科「医」による加害例(3次障害)

症例 1症例 2症例 3症例 13のような誤診例は多発しているが、ここでは医師による薬物障害の典型例を挙げたい。

 1959年生まれの女性。 働き者の福祉施設職員。
 夫の浮気で離婚。その過程で自律神経失調症を発症。さらに、離婚後老人ホームで働き、過労で症状が悪化する。
 平成12年2月、不眠、パニック不安、抑うつで茅ヶ崎市のS心療内科を初診する。

以後、平成18年7月26日まで通院を続ける。

このS心療内科院長は妻である家主と間がこじれて離婚訴訟となり、平成18年8月にS心療内科が廃院する。

そのため、平成18年8月23日、この女性は三吉クリニックを受診する。

脱抑制で、目は座っている。

朦朧として、応答も要領を得ない。

S心療内科の投薬は
①  1日3回 毎食後
ルボックス 50mg 1錠 
セニラン 5mg 2錠 
アデホスコーワ 10% 1g
当帰芍薬散 2.5g
②  1日1回 睡眠前
ハルシオン 0.25mg 2錠
ロラメット 1mg 2錠
トレドミン 25mg 3錠
パキシル 20mg 2錠
ベンザリン 5mg 2錠
セニラン 5mg 2錠
デパス 1mg 2錠
ユーパン 1mg 2錠

以上のS心療内科の処方をまとめてみると、

抗鬱剤3種類 SNRI1種類 SSRI2種類 
トリプタノール換算 375mg
抗不安剤 三種類 セルシン換算 96mg 
睡眠薬 三種類 ベンザミン換算 30mg

 以上全てベンゾジアゼピン系で、セルシンに換算すると、125mg。

薬を減らしていくと、徐々に自分を取り戻し、はっきりしてきた。

どこで買ってどうしたかも覚えていない新品の靴、服、その他もろもろがベッドの下に山ほど押しこんであった。

 借金は400万円になっていた。

 公共料金を支払えずに、電気、ガス、水道が止められた。

 真っ暗な部屋の中で、ついに愛犬とともに自殺しようとしたが、その危機を何とか通りぬけ、立ち直り、今は元気で働いている。

 バイタリティあふれる女性で、趣味はトライアスロンである。

 なお、現在の三吉クリニックの処方は
デプロメール 100mg
セロクエール 25mg
べゲタミンA 1錠
レンドルミン 1錠
酸棗仁湯 2.5mg 1日1回 睡眠前

 このS心療内科の院長は大学医学部の解剖学教室で助手をしていたが、精神科病院でアルバイトをしていた経験を生かして、1990年代に茅ヶ崎市にS心療内科を開業したのである。

 精神科医としての訓練は全く受けていなかったが、どういうわけか、日本精神神経学会の会員である。

 リタリンが厚生労働省により禁止されるまで、リタリン中毒者を多発させていた。

 薬を売る立場のプロパーさえも、顔をしかめて噂するドクターであった。

平成18年、S心療内科の廃院後は、元院長は東京でまた、JRの駅近くで精神科のクリニックを開業している。

 彼の開業をチェックするものはどこにもない。


症例 26

50代の男性。2007年1月、三吉クリニックを初診。

 外資系大企業に勤め、ドイツ語の達人でショーペンハウアーを原著で読み、民間のショーペンハウアー研究会の会員である。

 子供と妻を大事にするまじめ、勤勉な会社員。

 職場での激務が続き、過労状態となり、2005年秋、だるさや集中力低下、意欲低下と対人過敏で都内有数の公立病院精神科を受診する。

 統合失調症として抗精神病薬を投与され、無気力かつうつ状態となり、就労不能となる。

 公立病院精神科が処方した薬を服用すれば服用するほど症状が悪化した。

 2007年1月、高校生の長男が不登校で、長男のかかりつけのカウンセラーに相談し、そのカウンセラーの紹介で、会社員の男性が三吉クリニックを受診した。

 意欲喪失と強い自殺念慮があり、ベックBDIうつ病テスト42点の極度のうつ状態となっていた。

 私が三吉クリニックでうつ状態のため自宅静養を要するという診断書を出して、自宅静養を行った。

 三吉クリニックで抗精神病薬を中止し、抗うつ剤の投与を行い、3ヶ月間の自宅静養後リハビリ出勤を行ない、その年の7月に通常勤務となり、順調に元の外資系企業に復職した。

 大うつ病ではしばしば対人過敏となり、妄想的となるが、これはうつ気分に合致した精神症状であり、統合失調症ではない。

  この症例の詳しい記述は「精神医療ダークサイド 佐藤 光展著 講談社 2013年12月」のp17からp22「10分の問診で診断、投薬」にある。


症例 27

 1974年生まれの女性。中学校1年生の12歳の時にいじめを受け不登校となる。

 12歳の時に、北里大学の精神科を受診し、5ヶ月入院。

 診断、食思不振症。

 その後、北里大学東病院に3回入院し、計5年3ヶ月入院生活。

 関東中央病院に2年3ヶ月入院。

 他の病院と合わせ、39歳の現在に至るまで計12回入院し、合計12年2ヶ月の入院生活を送る。

 本格的な精神病症状は、17歳頃始まったと紹介状にあり、2013年10月三吉クリニックを初診。

 三吉クリニック初診時は39歳。

 病歴27年。三吉クリニック初診時の投薬は、

セレネース 12mg
リパスパダール 5mg
ジプレキサ 15mg
ルーラン 48mg
レボトミン 45mg
以上の抗精神病薬はクロールプロマジン換算2165mg。
他に
デパケンR 800mg
テグレトール 800mg
ルボックス 150mg
アーテン 4mg

 東京都内有名病院を次々に転院しているうちに、どこでも減薬されることなく、このような多種大量の薬物投与になったと考えられる。
 諸精神科医が協力して作り上げた、薬物療法である。

 彼女の両親は、親ではないと根深い確信あり。

 児戯的で、三吉クリニックの待合室や診察室で片時も待てず、帰ろうよとすぐに立ち上がりうろうろする。

 そのため、三吉クリニックに来院したらすぐに診察した。

 両親によると、デイケアに通所しているが、他の通所者との交流が全くできず、デイケアで開かれる行事にも参加できない由。

 多種大量薬物投与による副作用のための認知障害が考えられるので、薬が減ると、デイケアでも参加できる様になるので、デイケア通所は続けておくようにと、私が両親に勧めた。

 1年間かけてセレネース12mgを毎月1mgづつ減らしてゼロとし、エビリファイを初めは3mgを3ヶ月、次の3ヶ月は6mgにして、7ヶ月目より毎月3mg増やして、1年1ヶ月後に30mgにした。

 私は彼女は薬物の変更によって児戯性を顕著に示すことはなくなり、三吉クリニックの待合室でも待てるようになった、と考えている。

 両親によると、この8月はデイケアのコーラスに初めて参加して、歌を歌ったとのことである。

 衣服も独身の女性らしくキレイになってきた。

 ドパーミン過感受性精神病(Dopamine Supersensitivity Psychosis, DSP)

抗精神病薬を長期大量に服用すると、大脳の原始的な部分とされる情動を司る脳にある神経受容体の量が増え(アップレギュレーション)て、さらに大量の抗精神病薬が鎮静のために必要となり、かつ増えた受容体で大脳が過敏性を増し、ストレスやわずかな抗精神病薬の減少で、一挙に極度の精神興奮状態になり、容易に再発してしまう。

現在日本で精神科病院入院中の約30万人のうち、45%が治療抵抗性の難治性の精神病で、退院の見込がないとされている。
その多くの人が、抗精神病薬で作り出されたドーパミン過感受性精神病と推定されている。(過感受性精神病 治療抵抗性統合失調症の治療・予防法の追求 伊豫 雅臣 中込 和幸 星和書店 2013年5月 37ページ)

DSPに対するエビリファイの使用例については、同書46ページの引用文献 9) Tadokoro S, Okamura N, Sekine Y, Kanahara N, Hashimoto K, Iyo M : Chronic treatment with aripiprazole prevents development of dopamine supersensitivity and potentially supersensitivity psychosis. Schizophr Bull. 2012 Sep ; 38 (5):1012-20. doi : 10.1093/schbul/sbr006. Epub 2011 Mar 14.に記述されている。


症例 空手部の青年

 2014年6月、26歳の大学を休学中の男性が母とともに神奈川県のF精神科病院の紹介状を持って三吉クリニックを受診。

 がっちりした体格。こちらをきちんと正視して、視線をそらすことなく、自分が置かれている状況を丁寧に語る。

 主訴は首から喉にかけての刺すような痛みで、それに関しては執拗に何度も訴える。

 訴えの描写は精緻を極めている。

 思考障害はなく、気分障害もない。

 あるとすれば、アスペルガータイプの体の症状にとらわれた青年か。

家族
 父方の故祖父は商船の船員。世界中を周り珍物、奇物を収集する強烈なコレクター。祖父の広い屋敷は収集品でいっぱいであった。

 父は国家公務員。こだわり、執着は祖父ほどではないが強く、ただしそれを仕事に生かしている。

 母は穏やかな温和な性質。家庭の中では夫との折り合いに長年大変な苦労をしてきたが、年とともに夫は穏やかになってきたとのこと。

 息子に対しては両親とも愛情を持っている。

 家庭歴より見ると、彼はアスペルガー気質を引き継いでいる。

 両親の愛情をいっぱいに受けて育ち、愛着障害はない。

病歴

 祖父、父の気質を受け継ぎおとなしいが、何事にものめり込むタイプ。

 17歳、高校生の時、高校の極真空手部に入る。極真空手には寸止めがなく、直接打撃を行なう空手の流派。

 17歳の極真空手の練習時に相手のパンチがあたり、顎を負傷。

 この時より、眼の奥を針で刺すような痛みが始まる。

 19歳から21歳にかけて、大学空手部に所属する。この頃合気道で首を痛めて、首の痛みも伴うようになる。

 19歳から22歳の4年間に眼科5ヶ所、整形外科6ヶ所、矯正歯科2ヶ所、ペインクリニック2ヶ所、耳鼻咽喉科2ヶ所、心療内科2ヶ所、カイロプラクティック4ヶ所、鍼灸医院4ヶ所、整体院5ヶ所を受診し、さらに漢方薬局でも投薬を受ける。

 2013年7月、通院していたペインクリニックのメキシチールカプセル100mgを10錠を服用し、全身痙攣。不整脈を起こして救急病院に搬送。救急病院では気管内挿管をされて治療を受ける。

 メキシチールカプセルの適応は頻脈性不整脈や糖尿病性神経障害に伴う自発痛、しびれであり、本人には適応がない。通常1日300mg分3で使用する。1日450mgを超えて服用すると、心停止、或いは全身痙攣発作の副作用が出る可能性がある。

 1回の使用量は100mgから150mgであり、1回にメキシチールカプセル100mgを10錠1000mg服用すると、心停止や全身痙攣発作や幻覚錯乱を起こす可能性が予想される危険な薬物である。
参考文献
治療薬マニュアル 2015
高久史麿 矢崎義雄 監修 北原光夫 上野文昭 越前宏俊 編集 医学書院 2015年 543-544

 一旦退院するが、同年9月、本人によると首に針が刺さって発痛物質が全身にまわると訴え、不安、焦燥が強く、同月3日、都立病院精神科に母親同意の医療保護入院となる。

 都立病院精神科に入院中に保護室で拘束される。

 保護室を出た後、本人は母親は(本物ではなく)替え玉であると言い始める。(カプグラ症候群)

『カプグラ症候群(Capgras' syndrome)
周りの人々は本物ではなく、患者をまねしている偽物か、他の誰かをまねしている詐欺師であるという妄想。統合失調症および脳機能障害の部分症状のこともある。精神療法は妄想観念の力動を理解するのに有効である。例えば、周りにいる特定の実在人物たちへの不信など。』

カプラン 臨床精神医学 ハンドブック DSM-Ⅳ-TR 診断基準による診療の手引 第3版
ベンジャミン J サドック、バージニア J サドック著
融 道男、岩脇 淳 監訳
メディカルサイエンスインターナショナル 2007年 p153

 母親同意の医療保護入院で、身体を拘束された上、多種多剤大量投薬でひどい目にあったので、本人の言い分は了解できる点もある。

都立病院の処方は、

リントン 21mg
セロクエール 600mg
コントミン 300mg
以上分3毎食後
CP換算 2250mg

ピレチア 100mg
メイラックス 2mg
アキネトン 2mg
以上 分2 朝食、夕食後

トレドミン 50mg
レンドルミン 0.25mg 1錠
ロヒプノール 2mg
ベンザリン 5mg
睡眠前

 同年12月、神奈川県にあるF精神科病院に入院。

 入院時の症状は、全身の固縮が強く、動作は緩慢。歩行は小刻みであった。都立病院の精神科における処方が多種大量投与であり、薬物性の錐体外路症状と考えられ、F精神科病院で薬物を減らしていった。

 2014年6月20日、F精神科病院を退院した。F精神科病院の退院時の処方は、

リントン 4.5mg 分2 朝食、夕食後
ヒベルナ 50mg 分2 朝食、夕食後
アキネトン 2mg 分2 朝食、夕食後
トレドミン 50mg 分2 朝食、夕食後

セロクエール 200mg
ロヒプノール 2mg
ベンザリン 10mg
メイラックス 1mg
睡眠前

半夏厚朴湯 7.5g 分3 毎食後

①、② CP換算520mg

 同年6月27日、三吉クリニックに転院。母親を替え玉であるという主張(カプグラ症候群)は変わらないが、落ち着いた状態である。

 薬物性の錐体外路症状は軽快していた。

 母親にはカプグラ症候群について否定するのは一切やめて、そっとしておくように助言する。

 三吉クリニックでは、①アスペルガー症候群、②統合失調症様短期精神病性障害、③身体表現性障害と診断し、投薬の減量を進めていった。

 同年9月5日、三吉クリニックの処方として、

セロクエール 100mg 2錠 睡眠前

ロヒプノール 2mg
ベンザリン 10mg
メイラックス 1mg
1日1回睡眠前

半夏厚朴湯 7.5g
まで薬を減量する。

 整体を勧めたが、触覚過敏の彼は体に触られることを嫌がり、1回整体を受けただけで、「あってません」と言う。

 気功法を勧めたが、まだ続けられる体力と気力もない、と言う。

 カプグラ症候群以外の精神症状はなし。

 その後本人は来院せず。同年11月18日、日中も眠いのでセロクエールは中止している。

 本人は薬ですべての症状を一発で治してくれと言ってくる。

 それはできないと断るが、やむを得ず、三吉クリニックで

マイスリー 10mg
ベゲタミンA 1錠
1日1回 睡眠前

五積散 7.5g 分3毎食後
以上①、②を14日分処方する。

その後三吉クリニックに通院しなくなる。

 同年12月、母親が来院する。母によると、本人は薬を全く服用していない。実家近くの別宅に1人で住み、夕食のみ食べにくる。後は好きなことをして過ごしている。

 母は替え玉であるという妄想は消失している。

 母は夕食だけ一生懸命作っている。

 私のアドバイスは、夕食は何よりの薬である、と母を支持した。

 父は金はいくら使っても良い、好きなことをしろ、と言っているとのこと。

 私の意見は、本人の父の言う通りであり、本人の家系は代々のアスペルガー気質。病院に行かず、好きなことをしていればよい。

 父は良い理解者である。

「病院は危険な場所である。賢明な方法で、しかもできるだけ短期間利用しなさい。」(1)

「可能ならすべての薬を中止せよ。それが不可能ならば、できるだけ多くの薬を中止せよ。」(2)


(1)ドクターズルール425 医師の心得集 クリフトン K ミーダー編 福井次矢訳 南江堂 1997年第7刷 62ページ
(2)ドクターズルール425 医師の心得集 クリフトン K ミーダー編 福井次矢訳 南江堂 1997年第7刷 3ページ


障害について

 障害は一次障害、二次障害、三次障害(医原性)と分けて考えるとわかりやすい。

一次障害は軽いものから重いものまである。

 精神科では知的障害、発達障害、交通事故の後の高次脳機能障害、認知症等が一次障害とあげられる。

 発達障害の場合、アスペルガー症候群や注意欠陥多動性障害(Attention Deficit Hyperactivity Disorder, ADHD)の軽いものは、一次特性と考えて、それが生かされていくと障害がマイナスとなり、ハンディキャップがなくなる。

 発達障害の重いものは一次障害となりやすい。

 一次障害となると、二次障害を持ちやすい。(特に日本ではそう)

 二次障害は教育環境の劣悪さや家庭内外のストレス状況やいじめ等のトラウマによる。

三次障害は医原性である。

 二次障害には解離性障害、気分障害、認知情動障害(統合失調症、妄想性障害)等がある。

症例 1は一次障害も二次障害もないが、三次障害としての医原性薬物性パーキンソン症状があった。

症例 4は一次障害はないが、妻の浮気による二次障害としてのうつ病性障害で、自殺した例である。症例 4に三次障害はなし。

日本の特徴として、一次特性が活かされずに一次障害となり、さらに二次障害が加わり、さらに三次障害が重ねられる症例が大変に多い。

症例 2の三次障害の加害者は医師でありながら、自分が加害者であるという自覚に欠け、自らの投薬による病状の悪化を、個人の病理に帰して自分の治療法を正しいとしている。

西洋精神医学の鵜呑みがある。

症例 3は生来のADHDであり、父親が叱る中で、一次障害となり、さらに合併症としての二次障害が加わり、さらに誤診による三次障害が加わった。

現在は三次障害がなくなり、二次障害のうつ症状は残るも、農場の仕事の中で一次障害が一次特性として活かされてきている。

ADHDの人は、その特性を活かすのが最善の接し方である。

参考文献
ADHDサクセスストーリー 明るく生きるヒント集 トム ハートマン 東京書籍 2006年8月

二次障害について

(1) 二次障害を合併すると、精神症状が出てくる。

①  治療の原則
安全な場所、サポート体制づくり
参考文献
回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司 光文社 2013年12月 第7章 愛着を修復する 229ページから287ページ

休息と栄養

必要なら薬物療法
眠れない、食べられないで衰弱が進行している場合、痛み等の身体症状が強く、それに支配されて日常生活が困難になっている場合。
自分や他人に危害を加える状況になって、制御不能となっている場合。
いずれも、薬物療法は大変に有効である。

ただし、大切なことは、(『活かそう!発達障害脳 「いいところを伸ばす」は治療です。』 長沼睦雄 花風社 2011年6月)がよくまとめている。
編集者と精神科医の対話形式の同書60ページから引用する。

編集者 浅見淳子 花風社代表取締役社長
それでは先生、数ある療法の中で、まずは薬物療法について教えてください。先生は治療の中で、薬物療法をどのように位置づけていらっしゃいますか?
精神科医 長沼睦雄 北海道立緑が丘病院 医長
薬はうまく使えば助けとなります。ただ、薬は溺れそうな時の浮き輪であって船ではない、エンジンはついてない、と説明しています。
浅見氏
エンジンがついていない?
長沼氏
そうです。だから、薬は沈まないように助けてくれるものであって、泳ぐのはあなただと説明します。浮かしはしても、あなたが泳がなければ、どこかに引っ張っていってくれはしないのだと。でも、自分で浮いていられない時には助けにはなりますよ、と。


(2) 二次障害が出るまでにどれくらい時間がかかるか

症例 9症例 22のように、2~3日のことがあるが、症例 4症例 7のように6ヶ月かかることもあり、症例 14のように1年かかることもあり、さらには、症例 3のように十数年かかることもある。

発達障害等の一次障害がある場合、思春期から成人期にかけて不適応状態となり、二次障害発症に至ることが多い。

(3) 二次障害は症例 4症例 7のように人生の途上で避けがたいこともしばしばある。
 喪失によるうつ病は避けがたいものであろう。

(4) 寛解と回復
 二次障害治療にあたって、寛解と回復の違いを見極めることである。

 寛解とは、表面的な症状がなくなることである。

 食べる、寝る、入浴、外出等の社会生活に入る前の日常生活ができる状態を言う。

 ただし、回復は寛解とは違う。

 表面的な症状が消えても、回復しないままに社会生活に戻ると、高率に元の病気が再発し、時には慢性化してしまう。

 うつ病の高率な再発はこの症例が多い。

 「カプラン臨床精神医学ハンドブック―DSM‐IV‐TR診断基準による診療の手引 ベンジャミン・J. サドック、バージニア・A. サドック著、融道男、岩脇淳監訳 メディカルサイエンスインターナショナル 2007年9月」によると、うつ病患者の少なくとも75%が6ヶ月以内に再発すると書いているが、寛解者と回復者の再発率の違いが書いていない。ただの統計だけで、治療的にはほとんど意味が無いデータである。

 回復者は再発率が非常に低くなるのである。

 デイケアのリワークプログラムを終了すると、再発率が非常に低くなる。

 回復するには、寛解状態だけでは不十分で、デイケアのリワークプログラムやヨガ、気功法教室に参加することが有効である。

 ヨガや気功法、リワークプログラムの効果発現には、半年から1年以上の時間がかかる。

 具体例を後述の症例 37に示した。

「病気だから薬を飲む。病気が治れば薬はいらなくなる。ゆえに、薬を飲まないと治ったことになるので、飲むのをやめた。」と飛躍した結論で、薬を自己判断で中止して、再発する人が結構いる。

また、リーマス等の気分安定剤を飲まずに、睡眠薬だけ飲んで病気が再発した双極性障害の患者もいる。

再発防止には、患者教育が必須であるが、精神科の外来だけでは不十分なことが多い。

訪問看護は薬の服薬を確実に続けるには非常に有効であり、薬を中断しては再発を繰り返していた、統合失調症の初老の女性が訪問看護で薬の服用の仕方を指導し、本人が無理なく飲めるように一日一回夜の処方にまとめて、再発を防いだ症例等、訪問看護の有効な症例がたくさんある。

私は、高血圧や糖尿病の例を挙げて、血圧の高い時や血糖値が高い時は薬は治療薬である。血圧が安定し、血糖が安定した時は薬は予防薬になると説明する。

治療と予防の違いと大切さを説明するようにしている。

さらに、天気は好天が続くと必ず悪天となるが、うつ病、高血圧、糖尿病は安定し、回復している時間がながければ長いほど、再発しにくいということを説明する。

それには最低1年かかると説明している。

糖尿病治療のベテランが湘南中央病院の病院誌に書いていた。

血糖値が正常化しても、全身の代謝が安定するには3年かかる。

私は、うつ病等精神科の多くの病気は真に回復し、安定するには最低3年かかると考えている。

時には、10年かかって回復する人もいる。(症例 19

回復すればするほど、少々の荒海でも沈没しない、遠洋航海可能な大きな船舶に成長していくのである。

(5)

 自閉症圏の人で、その患者の家族にしばしば見られることであるが、時には精神医療従事者にも見られることであるが、「自分は発達障害者である。医者の誤診、誤投薬で統合失調症にされ、三次障害にされた。薬を減量して、中止してほしい。」

ここには重大な視点が抜けている。

症例 1のように、登校拒否で精神科の治療が全く必要ない人も、少しはいる。

症例 1の女子中学生は、中学校を登校拒否して、学校に行かないで生きるとい選択ができていて、精神科治療が必要な二次障害になるのを自ら防いだと言える。

しかし、周囲の状況や本人が取り込まれて、二次障害を発症していたらどうであろうか。

二次障害にも反復性うつ病性障害や、統合失調感情障害といった、腰を据えて治療しなければならない病気もある。

二次障害は治療をし、寛解から回復へ向かう必要があるのである。


企業との関わり

(1) 私が三吉クリニックを開設した1986年、企業に産業医の制度がまだなく、嘱託医はいたが、大部分が無理解であった。

 うつ病等で自宅静養が必要となった場合、企業側にうつ病の診断書を出すことは、家族本人に強く止められた。

 そういう理由では復職できなくるというのである。

 私は藤沢市医師会に入っており、本人にどこかに通院している所はないかと聞き、通院している所があると、その先生に電話で代わりの診断書を頼んだ。

 ある胃腸科クリニックの医師は、「ああ、いいですよ。胃潰瘍で2ヶ月の自宅静養にしておきます。」と診断書を書いてくれた。

 別の整形外科の医師は、プリプリして「今度だけですよ。」と言いながらも診断書を書いてくれた。

 ある大企業の女性社員は、私のクリニックに通院していることが会社に知られると、藤沢市内で整形外科医院を開設している嘱託医が職場に出かけて行って、本人や他の社員がいる前でクルクルパーの真似をしてみせた。

 その女子社員はその会社をやめた後、二度と働かず、家事と両親の世話をして過ごした。

 その女子社員が退職する時、人事担当者が私に電話してきて、製造現場の企業秘密を外には出さないだろうな、と言ってきた。嫌な感じであった。企業ぐるみであった。

 この会社の企業文化は今も変わっていないようで、その後も良い評判は聞こえてこない。

 最近はこの企業は急速に売上が落ちてきている。

 別の大企業Fでは、「三吉クリニックに通院しているのは絶対に内緒にしてくれ、嘱託医には秘密にしてくれ」と繰り返し頼まれたものである。

 別の大企業Iの社員は、三吉クリニックに通院していることを会社の嘱託医に知られていて、その嘱託医を「殺してやりたい。」と恨んで、ついに会社をやめて郷里の東北に帰っていった。

別の大銀行では、うつ病になった銀行員を全国から東京本社に集め、1年間仕事を与えず、1室で過ごさせ、それをクリアしたら初めて復職できる、ということをやっていた。 今は禁止されている。しかし、いろいろな企業で今も人事担当者が圧迫面接と称して、1時間の面接を本人がやめると言うまで延々と続けている。

 こんな時代でも、別の大企業の嘱託医はうつ病の治療に協力的で、いろいろな文献を調べて勉強していたが、例外的であった。

 その大企業の製品は信頼性が高く、今後も生き抜いていくだろうと私は考えている。

(2) 1990年代になり、うつ病の会社員が急増し、自殺者も急増して、毎年約2万人の自殺者が続くようになり、2000年代に入ると、ついに3万人の自殺者が14年連続して出るようになり、自殺者も40代、50代の社員より、20代、30代の社員に変わっていった。
 
2000年代は産業医の制度が整い、先ほどの大企業Fも見違えるようになり、F社の社員も堂々と私のクリニックに通院して、必要な診断書を出して病休をとれている。

 大企業Fの保健室は必要な援助を行っていて、調子が悪い時はもっと診察回数を増やしてもらったらと、親切な助言までしてくれる。

 日立グループは、私の友人が戸塚日立病院の院長をしていて、グループの産業医をしていることもあり、病気になった社員を積極的に紹介してくれた。日立グループの産業医と精神科の提携はとても有効である。

 2000年代に入り、未だに私が診てきたキラー達からの被害者は絶えないが、従来の大うつ病等の概念では理解できない不思議な人達と出会うのである。

 今までの私の理解と対処の仕方では歯がたたない人達が出てきたのである。


症例 28

片足けんちゃん(私の付けたニックネーム)

大企業の30歳男性社員。技術者。

仕事は問題がなくできて、上司、同僚との関係も良い。

父が死に、跡取り息子として色々心労があった。

その後、うつ状態が発症。

三吉クリニックで診断書を出して、その大企業を休職し、3ヶ月間自宅で静養した。

食事もよく取れ、睡眠もよくとれて、友人との付き合いも普通で、日常生活は全く普通にできる。

三吉クリニックで私が復職を勧めた。

リハビリ出勤をしようとしたところ、さっぱり自分の部屋から職場に出ていかない。

三吉クリニックで本人に事情を聞いてみると、出勤しようとして玄関まで行くが、玄関で午前中行くか行くまいか片足をドアの外に出しては引っ込め、けんけん立ちをしていて、やはり行けないと午後寝込んでいる。

事情を産業医に話すと、「そんなうつ病あるのでしょうか。」と産業医が言い、私が「うつ病にも色々あるから」と、その後さらに3ヶ月間の自宅静養を了解してもらった。

その後本人は、花屋のアルバイトを自ら見つけてきて、せっせと働いた。

花屋の労働は見かけとは違って、重労働であった。

いつのまにやらすっきりして、リハビリ勤務の後、元の大企業の職場に復職し、復職後2回ほど三吉クリニックを受診して、薬も不要になり、治療が終了した。

一つの行動パターンにとらわれると、非現実的であってもとことんやってしまう発達系の青年であった。


症例 29

技術者 40歳
 
「ケーススタディ」掲載のある技術者の症例より。

 新しく職場に来た上司との意思疎通を欠き、30歳でうつ病を発症。

 その上司が転勤し、発病のきっかけの事情がなくなるも、病休を繰り返し、他のクリニックでの薬物療法は全く無効。

両親との関係は良い。

病休は続き、ついに病休の期限が切れて、退職直前になった。

2007年三吉クリニックを初診。

リハビリ勤務の後、職場に復職するも、再度休職する。

うつ状態は中等度で、日常生活は普通にできて、大うつ病になることはなかった。

いよいよ、病休の期限が迫り、退職直前となった。

そこで、必死にヨガを行ない、復職し、その後もヨガを続け、半年間で全快。

 薬が不要となり、治療が終了した。

この10年間の薬物療法で、薬の副作用によるメタボリックシンドロームや肥満もよくなった。

イメージ、記憶力が抜群の技術者で、マイナスイメージが一旦生じると、次々にふくらみ、かつエンドレスに続いて、技術者が疲れきって動けなくなるまで続くのであった。

ヨガをやることにより、現在の瞬間の体の状態に集中できて、邪念の果てしない連続をストップさせることができるようになったのである。

 患者本人は悪いイメージだけではなく、良いイメージもストップすることが必要で、それもできるようになったと私に話す力のある技術者であった。


症例 30

郵便局員 女性

20歳で郵便局に就職。局長とともに郵便局を立ち上げ、几帳面。

正確に業務をこなし、職場や客の人望が厚かった。

小泉元首相の郵政改革で多忙の中、上司が次々に転勤し、ベテラン職員の彼女に負担が重なり、2007年2月頃身体症状(うつ病性)が強く出て、出勤不能となり、2008年6月、郵政管理センターの勧めで、ようやく三吉クリニックを受診する。

診断は非定型うつ病。

三吉クリニックで病休が必要という診断書を出し、2009年3月から7月まで自宅で静養。

 その後郵便局に復職するも、頑張っては短期間に休みを取る状態が続いていて、2013年は病休28日、2014年は1月から6月までに4日間の病休を取った、というように、三吉クリニックの診断書で休みを取っては出勤を繰り返している。郵便局の協力は良い。

兄は高機能自閉症で、本人も集中力が高く、こだわりが強い。

一旦こだわると、とことん力尽きるまでやってしまう。

以上3つの症例に共通することは、
①  仕事は優秀。上司や同僚との関係は良く、いじめはない。
②  きっかけはあるが、そのきっかけになった状況は存続していない。 中等度うつ状態はあるが、大うつ病になったことはない。
③  なにか打ち込むものが見つかって、自然治癒していく。(症例 28症例 29) それがないと、遷延しやすい。(症例 30
④  広い意味の発達系の人達である。



なお、ADHDやアスペルガー症候群等、自閉症スペクトラムの理解なしでは治療できない人が増えている。


症例 31

29歳男性

重度のアトピー性皮膚炎があり。臭覚、聴覚、触覚過敏あり。

父は優しく繊細な大企業の事務職で、定年退職した。

母は、うつ状態で1997年より三吉クリニックに通院中。

兄はうつ状態で、2004年より通院中。兄は小学校4年生の時にいじめを受けて、不登校。兄による両親に対する家庭内暴力が続いた。

 本人は幼児の頃より重要アトピー性皮膚炎あり。小学校3年生より不登校。感受性豊か。知的能力抜群。一人であらゆる本を読み、独学で様々な分野を修得し、ドラムやトランペットの演奏も修得し、スポーツもパソコンでボクシング等を修得する。音響を教えたおじさんは、天才だよと言っていた。両親、兄とも関係が良く、家族とよく話し、自分で作ったフランス料理のフルコースを家族に提供したりしている。小さい頃は兄がよく世話をしていた。

兄はうつ病となり、家庭内暴力を起こし、弟の世話ができなくなっていた。

唯一の弟の理解者、援助者である兄との関わりが途絶えてしまった。

本人(弟)は25歳頃赤ちゃん返りがあり、母が抱きしめていたが、その後2~3年、引きこもり専門のSNLというカウンセラーに通った後、家族と一切交渉を断って、1年間自室にこもり、2013年4月ガス自殺。

本人(弟)は過集中して、完全主義型のADHDの他に、アスペルガー症候群の特性を持っていたと考えられる。

 兄は同じく、ADHDのAD型でドラえもんののび太くんタイプで、アスペルガー症候群の特性を持っており、小さい頃より兄弟は仲が良く、兄はよく世話をしていたが、兄がうつ病となり、弟の世話ができなくなっていた。

 この症例は、この弟の特性を理解して援助する人間が必要であり、兄がその役割をしていたが、兄がうつ病でできなくなり、その後弟は孤独の中で死んでいったのである。

 こういった兄弟の小さい頃からの関係は三吉クリニックのケースワーカーが自宅を訪問し、本人たちのビデオを見せてもらって初めてわかったのである。

 アスペルガー症候群の人は、こちらが聞かない限り、彼らの脳的、心的世界は自ら語られることがない。

 彼らは健常者も自分達と同じ脳を持っていると思っているらしく、話さないでも周囲がわかっていると思っているフシがある。

 アスペルガー症候群の人達に、健常者側が知らない世界を聞くと、微細な点までよく記憶しており、話してくれるのである。

 そのような話をアスペルガー症候群の人たちから聞く中で、アスペルガー症候群の人達は、なぜ自分達が苦しみ、どうしたら良いかが見えてくるようだ。

 兄は今も、弟の自殺は自分のせいであると、自分を責めている。


症例 32

30代男性

 男4人兄弟の4男。
三吉クリニック受診時に両親は既に死去している。

高校卒業後、芸能界でお笑いタレントをしているが、収入不安定のため、一部福祉の援助を受けている。

2011年藤沢市内某精神科クリニックを受診。

 投薬は
①  テグレトール 200mg 1錠 1日/3回
②  レキソタン 5mg 2錠 ベゲタミンA 2錠 レンドルミン 2錠 ドラール 15mg 2錠 リスミー 2mg 2錠 ロヒプノール 1mg 2錠 リフレックス 15mg 2錠 (一日一回睡眠前) 
睡眠薬5種類の投与を受けていたが、2014年4月保険で出なくなると、突然リスミー 2mg 2錠、ロヒプノール 1mg 2錠を中止され、完全な不眠となり、高校時代の恩師の紹介を受けて、同月三吉クリニックを初診する。

薬を調整し、同年10月よりの保険適用ができるようにする。

三吉クリニックの現在の処方
①  テグレトール 200mg 1錠 1日/3回
②  レキソタン 5mg 2錠 ヒルナミン 25mg 2錠 
ヒベルナ 25mg 2錠 レンドルミン 2錠 ドラール 15mg 2錠
リフレックス 15mg 2錠 (1日1回 睡眠前) 睡眠薬2種類
③  ビシフロール 0.125mg 1錠 (一日一回 睡眠前)

なお、むずむず脚症候群のため、ビシフロールを服用して軽快した。

本人は眠れるようになったと喜んでいる。

精神科を標榜しているにもかかわらず、薬を増やすだけで減薬の技術を持っていない症例 25と同じ。

一挙に睡眠薬の服用を止めると、離脱症候群の反跳性不眠が出て当然である。

なお、不眠の原因としてむずむず脚症候群があり、ここを治療しないと不眠は治らない。
ベゲタミンAはクロールプロマジン25mgとヒベルナ25mgの合剤であり、ヒルナミンはクロールプロマジンと薬効は同じだが、催眠効果が強いので、本症例ではベゲタミンAの代わりにヒルナミンとヒベルナを投与した。


症例 33

 1997年生まれの女性

私立大学文学部卒業の知的な女性

父68歳、母63歳でふたりとも健康で、実家で生活している。

同胞は32歳の弟のみで、結婚し、独立している。

本人は大企業でプログラマーをしていたが、2002年、25歳頃に不眠が出現。

東京総合病院精神科を経て、某精神科クリニック2ヶ所を受診するも、就労不能となる。

マンションで一人住まいをしていたが、泥棒に入られパニック状態となる。

実家に戻るが、精神状態が回復せず、実家のセキュリティが不安でパニックとなり、2012年11月、NTTの病院の精神科を受診し、統合失調症の診断で、2013年1月から4月までその病院に入院する。

退院時処方
①  インヴェガ 3mg 4錠 ロヒプノール 2mg 2錠 
マイスリー 10mg  1錠 ロゼレム 8mg 1錠 ベンザリン 5mg 1錠 (1日1回 睡眠前)
②  マグラックス 250mg 1錠 アーテン 2mg 1錠 (1日3回 毎食後)

自宅で寝たきりの状態のまま、2014年6月、三吉クリニックを受診。

三吉クリニックの診断
①  パニックを伴ううつ状態
②  急性一過性精神病性障害
③  薬物性過鎮静(薬物性うつ状態) インヴェガ 12mgはクロールプロマジン換算で1200mgであり、うつ病であれば寝たきりになって当たり前である。
インヴェガを中止し、エビリファイ6mgを代わりに投与する。

睡眠薬も減量する。

現在の三吉クリニックの処方

①  エビリファイ 6mg 1錠 (1日1回 朝)
②  マイスリー 5mg 1錠 ロゼレム 8mg 1錠 
レスリン 50mg 1錠 (1日1回 睡眠前)
③  四逆散 5.0g (1日1回 睡眠前)

本人は賢く有能な人で、T病院デイケアを経て、ハローワークに行き、障害者雇用で電気関係の別の大企業に就職する。
月収20万円、ボーナス夏20万円、夏季休暇もあり、定時勤務で残業なし、保険もでる。

障害年金と合わせると、悠々の生活である。

現在は彼氏もできている。

常勤にはならない、このままで良いと、言っている。

予防薬としての、薬物服用を勧め、本人も納得している。

3ヶ月に1回三吉クリニックに通院している。


症例 34

1983年生まれの男性 両親二人と会社員の妹の4人家族。

本人以外は皆健康である。

東京6大学の経営学部卒業。

本人によると、本人は頑固、偏屈、こだわり、集中力が並外れて強い。

 周囲の人間が本人を見ると、本人は大変まじめであるが、本人は自分はまじめではない、と断固否定する。

趣味のギターものめり込むと止まらない。

多動とアスペルガー症候群の傾向がある。

周囲のどんな人の評価も高く、大変まじめで、強迫的で、エネルギーが強い気質。

しかし、自己評価は常にマイナスで、自分を責めている。

なぜ彼はこのようにいつも自分を責める、マイナス思考の人間になったのであろうか。

2003年8月、大学3年製の時に、20歳で初めてパニック発作を起こし、その後うつ状態となる。

2004年8月よりT精神科クリニック通院。

2005年4月から20006年10月まで会社員となるが、T精神科クリニックによる投薬が徐々に増えて、薬物依存となり、ついに2010年5月に精神科病院のF病院に5ヶ月入院。

 F病院を退院後、2010年6月より、三吉クリニックに通院する。

T精神科クリニックの処方

①  セルシン 5mg コンスタン 1.6mg セパゾン 8mg デパス 2mg (1日2回 朝夕)
②  ジプレキサ 10mg (1日2回 朝夕)

① のセルシン換算 96mgのベンゾジアゼピン系薬物依存症。
② のクロールプロマジン換算 800mgの大量投与。

本人は、無気力で、薬をのむほど不安が強くなり、集中力も記銘力も低下し、家では寝たきりになったかと思うと、親に金を要求して暴れまくったり、暴飲暴食となったり、なんとも悲惨な状態である。

三吉クリニックに通院開始後も本人は不安が強く、精神安定薬を私に要求して、週に何回も通院したがるが、保険の適用がないと断って、週1回の通院を守らせる。

薬も徐々に減らすことができて、自宅での生活も平和になり、落ち着いた状態で作業所に通所して、駅前でティッシュ配りをしていた。

若い彼がこのままでは未来が開けないと考えて、2012年に三吉クリニックでA型作業所を紹介する。

木枠を作って工場に納入している職場で、所長夫婦が彼の世話をよくしてくれる。

所長夫婦が彼の仕事ぶりを見て、大変まじめな仕事ぶりと評価している。

仕事が信頼できると所長夫婦に評価されているが、木枠作りではそこまでやらなくてよいと言われるが、彼は絶対に手抜きができない。

週5日働き、所長夫婦に感謝されている。

A型作業所では月に5万5千円の収入があり、障害年金と合わせて月12万円の収入である。



現在の三吉クリニックの処方

①  リーマス 300mg ノリトレン 25mg (1日2回 朝夕)
②  デプロメール 75mg (1日3回 朝 夕 睡眠前)
③  リフレックス 30mg ラミクタール 200mg ジプレキサ 5mg ルネスタ 2mg (1日1回 睡眠前)

寛解より回復に至るにはデイケアのリワークプログラムは大変に有効であるが、それには合わない人がいる。

説得に時間がかかり、効果が出るにも時間がかかるが(半年から1年以上)、私は寛解状態には入っているが、真に回復せず、三吉クリニックに通院しても、薬物を服用しても症状が消長を繰り返している人には、気長にやれる人かを見極めた上で、ヨガ、あるいは気功法を勧めている。

 ヨガや気功法は私自身がやらないと説得力がないので、私も下手ながらやっている。

 自分もヨガと気功法をやった上で患者に説得すると、やる患者が出てくる。


症例 35-1

初診時52歳、現在61歳の某銀行男性銀行員。 妻と子供3人の5人家族。
 本人は少年時代より自律神経が不安定で、虚弱体質で、青年期を過ごす。

 体質は徐々に改善してきたが、50代になり銀行で昇進して、仕事のストレスで酒の量が増え、かつうつ状態になる。

2005年8月に三吉クリニックを受診する。

三吉クリニックでトレドミン 25mg 1錠 1日2回を処方する。

 銀行での仕事は何とかしていたが、一進一退の状態。

 途中三吉クリニックで処方されたサインバルタ 20mg 1日2回を服用するも、一進一退の状態は変わらず。

 大量に飲酒し、駅で倒れて妻に叱責されるなどしていた。

 本人のうつ状態及び大量飲酒の状態が遷延しているため、2012年3月、気功法を勧める。

 本人は整体治療を受けた後、毎週土曜日の気功法教室に熱心に通いだし、うつ状態もなくなり、大量飲酒もしなくなり、治療が終了する。

 その後も熱心に気功法教室に通っている。

現在は銀行も嘱託勤務になり、楽な職場になったとのこと。

アルコールの問題飲酒もすっかりなくなり、気功法教室の宴会では幹事役となり、教師や出席者との交流を楽しんでいる。


症例 35-2

症例 35-1の銀行員の1986年生まれの次女

17歳の高校生の時に2003年に三吉クリニックを受診する。

背が高く、痩せて虚弱な体質をしている。

父によると、これは、自分の若い頃とそっくりな由。

 朝めまいがしたり、気持ちが悪かったり、無気力だったりする。

本人はうつ状態に加えて、自律神経失調症と胃炎。

三吉クリニックの処方は
①  サインバルタ 30mg 1錠 1日1回朝
②  セレキノン 1錠 セルベックス 1カプセル 1日3回 毎食後
③  サイレース 1mg 1錠 ロゼレム 8mg 1錠 1日1回 睡眠前
④  桂枝加笏薬湯 2.5g 1日3回 毎食後

アルバイトをしたり、大学に行ける日もあるが、またダウンして大学を休んだり、安定しない。

経過が長引いており、ヨガ教室に参加することを勧める。

よる母が運転する自動車に乗ってヨガ教室に通ったが、挫折する。

その後、父が気功教室に通い、完治したのを見て、再度自宅近くのヨガ教室に一人で通い始め、今度はヨガ教室へ通うことが続いて、投薬は上記②の胃薬のみとなり、抗うつ剤や睡眠薬は不要となった。

三吉クリニック初診時は17歳で、現在は28歳である。


症例 36

父は大企業の会社員であったが、50代で死去し、母と長女の本人と次女の妹との3人家族。

妹は積極的な性格で、現在病院の事務員をしている、大変な働き者である。

 本人は内向的でおとなしく、妹との仲は今に至るまで大変良い。

 本人は高校卒業後、藤沢市内の会社に就職するも、職場のストレスでパニック状態となり、1987年、19歳の時に三吉クリニックを初診し、現在46歳となった。

 その後、自宅内で過ごすようになり、外出も同じ市内の三吉クリニックには一人で通院できるも、遠くには妹と一緒の時しか外出できなくなる。

 本人は母および猫と一緒に家の中で過ごされていた。

 薬も止められない状態。

 ただ年月が過ぎていく中で2013年3月、気功法を紹介し、本人は気功法の教室に通い始めた。

 気功法の教師やスタッフ、参加者とも合ったようで、楽しそうに教室の様子を語られる。

初めて、家庭以外で本人の居場所を見つけられたようである。

私のクリニックの通院だけではこのように変われなかった。

 休むこと無く大変熱心に気功法教室に通い、薬も1年経過して頓服のワイパックス 0.5mg 1錠以外は不要となる。

 今では、横浜市のコンサートや、江ノ島で開かれる気功法大会に一人で出かけ、生活を楽しめている。

 本人の話によると、「週1回気功法の教室に出た後は、その後1周間体調がいい。気功法がなければ薬は中止できなかった。不眠等にはハーブを愛用していて、睡眠薬は使う必要がなくなった。遠くに外出するときだけ、頓服のワイパックスを服用している。」


デイケアおよびストレスケア病棟、リワークプログラムの活かし方


体の病気との付き合い方


症例 37

1974年生まれの男性の地方自治体の公務員

2013年8月三吉クリニックを初診時39歳

2歳年下の妻と中学1年生の長男と小学校6年生の長女の4人暮らし。

同胞3子の長男に生まれ、父早くに死去する。

 高校卒業後、昼間働きながら夜間大学を卒業する。

その後、会社勤めを経て公務員となる。

優しいが、負けず嫌いで、大変まじめ。

粘着質の気質。

平成17年(2005年)に職場を移動後、うつ状態発症。他病院の精神科ににかかるが回復ぜず、2010年に39歳の時に三吉クリニックを初診する。

三吉クリニックの診断書による休職
第1回目の休職 2010年4月から6月
第2回目の休職 2010年7月から2012年8月
第2回目の休職期間中、2010年秋にTHPメディカルクリニックデイケアを紹介するも、デイケアに1日出席すると、7日間寝たきりとなり、中断する。

さらに、2011年3月より8月まで、神奈川県立芹香病院のストレスケア病棟に入院。

2011年8月に、神奈川県立芹香病院を退院後、THPメディカルクリニックデイケアリワークプログラムに参加し、2012年8月、リハビリ勤務を経て、地方自治体の職場に復職する。

その後三吉クリニック以外のクリニックに通院していたが、2013年8月三吉クリニックを再診する。

うつ症状はなくなっていたが、執拗な発作性の頭痛に悩まされていた。

この頭痛では専門医を4ヶ所受診するが、そのうち2ヶ所は三叉神経痛の診断で、他の2ヶ所は他の診断で、決着していない。

その後本人は、頭痛で職場を休むことがあるも、頭痛以外で休むことはなく、仕事は続けている。

私は本人に、「一病息災。この頭痛は日常生活が続けられるようなレベルであれば、完全に治さないほうが良い。完全に直すと、もっと厄介なうつ病が再発する可能性がある。」

私が大学時代の先輩から聞いた話として、長年の胃潰瘍で悩んでいた会社員が胃を切除して、胃潰瘍はなくなったがその後統合失調症を発病した症例がある。

こういった話を本人にすると、本人もしょうがないと、半ば諦めている。

 ところが、その後仕事が忙しく、残業が続いて夜10時の帰宅が続いた。

 翌年になって頭痛ががひどくなり、2月より職場を休むことが増え、3月になると断続的に休むようになった。

 神経内科で神経ブロック注射を受けるが、効果はなかった。

 このため、整体治療を勧めた。

 2月28日より4月9日まで計7回の整体治療を受ける。

整体師の報告
『4月9日
首筋上部を施術を行なうと痛みは完全に止まる。顔面施術も同時に行う。三叉神経部に首筋上部の固結が作用している。三叉神経痛よりも、クーラー病の可能性が高い。

4月10日
昨日まで、7回に渡り施術致しました結果三叉神経痛より頸枝神経の痛みの作用により、三叉神経を刺激している様に思われます。と申しますのも首筋の天柱(右)を施術しますと、痛みが止まる事がはっきりしました。これはクーラー病及び、何らかの原因による冷え、コリから来ているものと思われます。とりあえず報告致します。』

 上司を三吉クリニックに呼び、本人と合同で打ち合わせを行った。

 整体が有効で復職は可能である。クーラーが直接あたらないような環境の改善と、当分の間の残業なしを職場として協力されるとのこと。本人は整体治療を続けるとともに、頭痛の原因である冷え、肩こりを自力で治すべく運動プラス温泉を勧めた。


最後に、気持ちのよい回復の症例を挙げよう。


症例 38

母はフィリピン人で、母の前の夫のフィリピン人は本人が生まれる直前に死去している。

 母は交際していた日本人男性との間に本人を妊娠し、本人が5歳の時に母がその日本人と再婚し、本人が高校1年生の時に、両親が別居する。

 本人は横浜市の高校を卒業し、高校時代の恩師に付き添われて2014年4月25日、三吉クリニックを初診する。

 本人は痩せて、顔色が悪く、おどおどしている。

 非常勤で私鉄の改札の係をしていた。

その改札がある所は京浜工業地帯で、労働者の多い地域であった。

 働いていた改札口の近くには競艇場があり、競艇がある日はお客で混雑するが、有り金をすってしまったお客が度々駅員に絡んでくるのである。

 彼は柔和でおとなしく、気弱そうな外見をしていて、客に絡まれることが多く、ついにノイローゼになった。

 2013年夏頃より、薬局で薬を買って常用するようになった。

 2014年4月、電車に飛び込めば楽になるという声が聞こえてきて、あわや飛び込もうとして、後の客が止めてくれた。

 それで母が、元の担任の教員に相談して、本人と担任の教員が急遽三吉クリニックに来院した。

 慢性の薬物依存の経過の中で、不眠、不食となり、反応性急性うつ状態での自殺未遂。

 三吉クリニックで診断書を出し、職場を休ませた。

自宅静養をさせて、

三吉クリニックの処方で

リフレクス 15mg 1錠 ジプレキサ 2.5mg 1錠 (1日1回 夜)を服用させた。

週1回その教員が付き添って三吉クリニックを受診し、順調に回復していった。そこで、本人を含めて教員、私、三吉クリニックのケースワーカーのみんなで復職の方法を相談した。

へたに精神科医やケースワーカーが動くと、その後の復職が困難になることもありうる。

そこで、その教員が復職に向けて動くことになった。

その教員が駅の助役に助言して、競艇客が来ない別の駅の改札口に2014年5月より勤務。

仕事を少しずつ増やし、2014年8月には薬も不要となり、治療終了。

8月の夏休みにおみやげを持ってフィリピンに旅行されると、嬉しそうに語られた。

この間その教員は、診察には同行されるが、一貫して自らは発言せず、じっと暖かく見守っているのが印象的であった。

急性ストレス障害は助けがなければ自殺につながる。

元担任の適切な同行はするが、代弁はしないサポートが彼を救った。



同行と代弁と代行(湘南中央病院の北村ケースワーカーによる)

同行は常にしてよい。
同行して本人に安心してもらって、自分の力で相手側と交渉する。
相手側も本人一人のみでは時に差別行動が出ることがあり、差別行動を受けると本人は大変傷つく。同行者がいるとそれを防ぐことができる。
こうして、本人はプライドと自信を回復し、さらに力をつけていく。
代弁は時にはしてよい。
 本人のみでは自己表現が不十分な場合、相手に真意が伝わらないことがある。
 その時には本人をサポートして補充発言をすることが必要な場合もある。
代行は常にしてはダメ。
代行することにより、本人の自分でやるという自信がなくなり、さらに依存的になり、悪循環に入る。
施設病と言って、精神科病院の長期入院者が生活力がなくなっていくのは、小遣い等様々な事柄を職員が代行して本人をダメにしていくからである。
代行によって、本人を何も一人ではできない人間にしてしまい、精神科病院なしでは生きることができない人間にしてしまうことになる。

自立について

 自分ができることと、できないことがわかり、自分ができないことは人に助けを求め、自分ができることは自分でして、かつ人を助けることができる。

症例 38のように母が助けを求め、助けを求められた元担任の教員が適切に動いて、人を助けることができたのである。
 本人は追いつめられ、疲弊した状況では症例 38のように、自らは助けを呼ぶことができないことが多い。

身近な人間が助けないと立ち直れない。

助けた後心身が回復して、助けがなくても自分の力で生きられるようになるのである。

治療の原則

本人は自然治癒力を持っており、それを妨げる事柄、人物等を特定する。

①  妨げるものがキラーの人間である場合。
症例 2症例 16症例 22等多数。
②  病気を発生させる環境、状況
症例 7症例 13症例 14症例 18等多数。
③  本人自身の過剰適応
症例 11
④  本人の持っている独特な心的、脳的な世界
症例 29
⑤  医師による加害
症例 25等多数。

医師としてすべきことは、

害を与えないこと。時には何もしないことが良い。

三次障害を作らないこと。
①  誤診と誤投薬をしてはならない。誤診と誤投薬をするくらいなら、何もしないほうがいい。
症例 1症例 2症例 26等多数。
②  長期的に本人の時熟を妨げる依存症薬は使わない。(ベンゾジアゼピン系)
症例 25等多数
処方する場合は、短期少量にとどめる。
③  トラウマで解離障害(フラッシュバック)、幻聴等が生じている場合は、トラウマの治療を行う。
今日、EMDR等の治療法がある。
④  本人個人の病理にする近代精神医学は無益かつ有害であることが多い。
東洋的治療法を取り入れる必要がある。
東洋的治療の特質は、心身一元論で、体を基本にすることである。
私は、体の治療でトラウマそのものも軽快した事例を多く経験してきた。
(1) 漢方、ハーブ
(2) 指圧、整体
(3) 気功、ヨガ
(4) 伝統的治療法 温泉、お遍路、アロマ療法
(5) 本人のプライドや自信を高める社会資源を積極的に活用する。デイケアのリワークプログラム。障害者雇用。A型作業所等、社会とつながり、収入につながる社会資源が良い。旧来の社会より隔離された作業所やデイケアは長期的に本人の自己評価を下げ、ダメージを与えることが多い。1日働いても、1000円位では本人のプライドを傷つけて当たり前であり、そんな作業ならやめたほうがよい。作業所は最低賃金を払うぐらいの経営努力をすべきである。













ケーススタディ