ケーススタディ


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症例 自殺した人、生き続ける人




新しく家に来た灰色ドラちゃん

索引




(自殺した人、生き続ける人)

 4つの症例を記載。生き延びた人は、全て本人の許可を得て掲載されている。


 症例① YTさん 37才 主婦 死亡年1986年

診断 (当時)うつ状態(不安神経症)身体合併症、全身衰弱、突発性浮腫
   (現在)大うつ病(身体衰弱、精神病症状を伴う)

1983年3月湘南中央病院で私の診療を受けたあと、同院で入院加療、通院治療を行い、1986年5月三吉クリニックの開設に伴い、転院され、同年12月自殺された。
三吉クリニック開設後始めての自殺者であった。

(家族歴及び病歴) 父は国家公務員、母は3児をもうけたあと公務員宿舎でノイローゼとなり、本人小学5年時農薬で自殺未遂を図り、精神科病院に2年入院後、本人中学1年時、43才で入水自殺される。
母の遺体は2年後に発見される。
母自殺後父はグレ、育児を放棄し、家族はその後転地する。
本人は3人姉妹の3番目末っ子であり、甘えん坊であった。
積極的、外交的な性格であった。
おばあさん子として育てられる。
本人は短大卒業後、警察学校に入学し、その後警察官となる。
マンションで1人暮らしをする。
国民の為に働くという仕事が大好きで、スポーツ万能でもあり、1番輝いていた時期をすごされ、30才時、8才年上の、自営業の夫と結婚される。
温厚な愛情ある夫との新婚生活は幸せであった。

但し、それもつかの間で、夫が悪徳業者にだまされて資金を流用されて倒産。
33才時妊娠するも流産という不幸が続く。
この中で不眠症となり、大学病院精神科で眠剤投与されていた。
1982年 57才で父死亡。
1983年 本人34才2月の始めにカゼをひき、気管支炎となり、咳が難治性でこじれる中、食欲不振、不眠が続く。

同年3月私が診察する。
身長160cm近い大柄な女性なるも、結婚前51kgあった体重が37kgとなっており、極度の全身衰弱になっていた。
同年3月より湘南中央病院で入院をくりかえし、翌年1984年秋には体重もふえて50kgとなり体力回復し、営業の仕事につけるまでになった。
夫も銀行に再就職され、夫と箱根旅行に行ったり幸せな時期もあったが、翌年正月、夫が胃潰瘍で吐血して入院。
その看病を熱心にしたあと不安発作や度々の気管支炎をくりかえし、その年の4月には体重40kgとなり再度やせが目立つようになった。
1986年5月37才時、三吉クリニック開設に伴い、三吉クリニックに転院される。
積極的な外交的な性格があって、三吉クリニックの受付看護師のスタッフと気があって、電話等で個人的に相談されるようになっていたという事であった。
(自殺後に詳しい事を知った。)

クリニック転院後、6月下旬には42kgとなって少し回復されるも、又気管支炎となり40kg台におちると繰り返される。
ただし、夫と旅行されたり、一喜一憂の日々を過ごされる。
同年10月特発性浮腫出現。
一方高プロラクチン血症のため乳汁分泌性無月経となり、内科治療受ける。
薬の影響は不明であった。
こういう中で、不眠、眠気、めまい等の自律神経失調症状も伴うようになった。
これは回復するも十分な心身の回復がないまま復職し、暮には仕事も忙しくなってきた。
同年12月17日 本人夫と共に受診。
前日の夜、死にたいといってワインを3本のんでワインのセン抜きで左手首をひっかいた旨。
左手首には擦過傷があった。
内科医に入院中のケアをたのんで湘南中央病院内科に入院させた。

12月18日に様子がおかしいと湘南中央病院看護師より私が非常勤で勤務していた上秦野病院に連絡があり、私は勤務を終えて、夕方、湘南中央病院に行き、本人、夫と面接する。
本人は「病院では疎外されている。
三吉先生の患者だからとよくしてもらえない。
イライラする」と話し、話の途中で自ら自分の首を両手でしめて舌を出し苦悶状の表情をされる。
私はとりあえず夫と共に外泊させた。
被害妄想的なことは今までの入院で1度もいわれた事がなく、首しめ行為と併せて、後から考えると明らかに危険なサインであった。
私が彼女と会ったのはそれが最期であった。

家に着いて、夫がちょっと買い物に出て自宅に帰ってみると妻は血だらけで即死していた。
ワインが1本空となっており、包丁で頸部を切り自殺した検視結果であった。
12月17日入院したあと度々本人は同室の患者やクリニックの看護師にも自殺したいと訴えていたことが判明する。
又12月18日の昼間、病院の前の道路で大型トラックの前に倒れていた事実もあった。
これらは全て自殺したあとわかってきた情報であった。
自殺前には私のところに情報が伝わってこなかった。

(考察と反省)(誤診断、誤処方)
①著明な体重減少を伴い睡眠障害を伴ううつ状態は、神経症性のうつ状態ではなく、身体状態を伴ううつ病すなわち大うつ病であった。
大うつ病の発症は1983年2月 34才時と考えられる。
大うつ病の診断・診療がなされなくとも内科入院と夫の協力により1984年の12月には体重49kg、1985年の1月には51kgと体力・気力とも回復して、いったん自然治癒したと考えられる。
この頃、バイトを始めたり、書道を始めたり健康となっていた。
再発したのは1985年の3月~4月であり、夫の病気入院のあと不安発作と共に体重40kg以下と、前に戻ってしまった。
うつ病の診断・治療が出来ていないため。
容易に再発したと考えられる。

1986年12月12日の最終処方は
①新トライアーゼ 1.0g
 AM散 1.3g
 プリンペラン 2錠
 上記の薬を1日3回
②抑肝散加陳皮半夏 2.5g
 1日3回
③サイレース 1mg 2錠
 ベノジール 15mg 1錠
 ユーロジン 2mg 1錠
 イソブロ 1.0g
1日1回 眠前

これは今からみると悪処方である。
一切の抗うつ剤は使用していない。
日中にベンゾジアゼピン系の抗不安剤を使用していないのは正解であるが、但し眠剤にベンゾジアゼピン系の睡眠薬を3種併用している。
いずれも長期間型である。
更に大量服用すると呼吸停止の危険性のあるイソブロ(イソミタールとブロバリンの混合製剤)を使用している。
イソブロは今は使用されない薬である。
望ましい投薬としては長期間型のベンゾジアゼピン系睡眠薬は1種類として、睡眠効果のある抗うつ剤(当時テトラミドは使われていた)と、睡眠効果のある向精神薬(レボトミン等)を眠前に出すべきであったろう。
当時、リチウムは躁状態の特効薬として使用されていた。
うつ病、特に衝動的な自殺企図に有効で、自殺企図を1/6にへらすリチウムのうつ病に対する有効性は現在は医学常識となっており今なら使用必須な薬である。
(但し、日本ではうつ病に未だに保険未適用である。何たる精神医療後進国!)
又、大うつ病者は、過剰適応して破綻することが多いので、再発時の禁酒を始めとする生活改善やうつ病独特の認知の歪みに対する話し合いも必要であるが、それもなされていなかった。

(現代精神医学診断分類に対する無批判的信頼)
②不安神経症が本格的な大うつ病に進行する事があるという事に、私自身全くの無知であった。
神経症、うつ病、躁うつ病、精神分裂病という当時のクレペリン以来の疾患分類を疑いもせず、そのまま信じていた。
私はこの自殺を契機に、精神障害の単一疾患説
(グリージンガーの単一精神病 新版精神医学事典 P527 弘文社)に傾き、クレペリン以来の現代精神医学の疾患分類に疑いを向けるようになった。

(家族歴の軽視)
③家族歴で母が農薬自殺未遂を行い、43才で入水自殺行った事。
家族的にうつ病の背景と強い自殺衝動があるという事への洞察がなかった。

(チームワークのなさ)
④私やクリニックのスタッフ、夫を含め周囲には自殺のサインは度々でていたがそれを危険と感じて、防ぐチームワーク体制がなかった。
夫はベストを尽くしたが、主治医にそれを知らせるシステムがなく、私を始めスタッフはやるべき事をやっていなかった。
情報が私のところに集中していない。
この場合主治医の私が危険と判断していれば、協力は容易であった。
彼女は夫はじめ人的資源は豊かな人だったのである。

(緊急行動ができなかったこと)
⑤12月18日昼のトラック前転倒事件を知っていて危険な状態と気付いていれば、その晩はレボトミン等の強力安定剤やトリプタノールの点滴を使い、夫に泊まりこんでもらって、とにかく眠らせ、次の日に上秦野病院に緊急入院させて、一命はとりとめられたと考えられる。
私が指令を発すれば、全スタッフや夫もそのような緊急行動ができたのである。
以上、私の未熟、未経験、無知と思いこみのため、救えなかった症例である。
ひとえに私の責任である。


症例② Kさん 56歳 男性

診断
(当時)統合失調症 型は不明(F20)
(現在)①広汎性発達障害を背景とした統合失調症及び統合失調症後抑うつ
    ②アルコール依存症及びアルコール性肝硬変
    ③逆流性食道炎

【既往歴】なし
【生育歴及び病前エピソード】母は地方の裕福な資産家の娘。
父は、同地方出身でT大卒の高学歴で元大会社の人事部長なるも、母のような遺産相続はない。
F市K町で立派な屋敷に住む。
2子の次男として出生。
3歳年上の長男は20歳の頃、本人を憎んだまま家出してそのまま行方不明。
幼少の頃より母は教育熱心で家庭教師をつけたりしていた。
父は厳格であった。
小5より時々登校拒否、いじめも受けていた。
高2の5月より不登校。
その後、両親との争いが始まった。
その後中退する。
入会した時期は不明であるが、父母共、戦後できたキリスト教系新興宗教の熱心な信者であった。
20年前入信(1985)、10年前本人入信(1995年)本人は2012年脱会された。

【性格】内向的、真面目。
温和で他人には控えめでやさしい。
この性格は、現在まで変わっていない。
大変な凝り性で少年の頃よりサボテン飼育に熱中し、様々な種類を150鉢育てていたが、父に弾圧され、サボテン飼育を高校時代に諦めた旨。
このエピソードは、私がクリニックで育てていたサボテンが枯れてしまい、その時に育て方を彼が教えてくれた時に聞いた話である。

【現病歴】高2より近医に通うも、軽いノイローゼと言われている。
その後、高名精神科医を何ヶ所か転々とするも、治療は始まらず、高校中退後、暴力は激しさを増した。本人によると、両親の一緒になった弾圧に対し、自分は闘った。家庭内暴力と言われるのは心外である。

17歳、兄は家を出て、その後本人との連絡を断つ。

19歳、父母は別居し、広い屋敷に本人は一人で生活する。

20歳、幻聴・幻覚出現するも未治療。

22歳。母が家に戻り、本人と2人で生活。

23歳、父も家に戻って3人で生活、暴力は徐々に収まり、暴言だけになっていった。

10年たって32歳、父母と同じキリスト教系宗教の信者であるA精神科医を受診し、治療が始まる。

33歳、A医師の紹介状を持って当クリニックを受診。
その紹介状には、初診時所見として、幻聴・拒絶・著しい好褥(こうじょく:布団やベッドに入って寝たままとなり、そこから出たがらないこと)とあった。
長身の温和な控えめの青年であり、拒薬や攻撃性はまったくない。
父母も治療に協力的であり、かつての家庭内暴力は全く信じられなかった。
本人の言う通り、本人の病理による家庭内暴力ではなく、両親の弾圧に対する本人なりの闘いであった、と私は考えている。
当院受診後、父は家族会の設立に熱心に動かれ、初代会長となり、毎月家族会に参加される。
その家族会で父の語られた事、「(本人を)何もかも受け入れることです」。
永年の辛酸よりつかまれた格言であった。
作業所の設立にも協力され、本人も当地の作業所に参加されるようになり、その控えめでやさしく穏やかな人柄で、仲間や職員の信望を集め、家族内外共、平和な日々を送られる。
母の手紙に「1年前、2年前のことが嘘のようだと2人で申して感謝しております」。
この頃より父母は、自分たち亡き後を考えられ、障害年金や扶養共済制度の加入、母の相続分の遺産相続等に手を打たれる。

42歳の夏、不眠で睡眠薬を追加したところ、効きすぎて、朝起きたら右上腕垂れ手となる(圧迫による右上肢橈骨神経麻痺)。
本人パニックとなり、自殺企図寸前であったが作業所職員が気づき、緊急受診。
専門医受診後、ビタミン剤による薬物療法を始め、回復される。
この病気の方は、まさかの時にパニックとなり混乱し、自殺企図に走り易いので、まわりの支えの大切さを痛感したものである。
 この頃より母が脳梗塞を度々繰り返し、自宅でも寝込むことが多くなった。
当初、父は、「この病気は恐ろしい。本人は母が寝ていても無関心で全く手伝わない。」と、嘆いておられたが、それは父の早とちりであった。
控えめな彼は徐々に少しづづ介護されるようになり、始めるとうまずたゆまず実に辛抱強い介護を父と共にされていた。

本人45歳時、母73歳で死亡。
一時、父も本人もうつ状態になるも回復。
その後、高齢の父も徐々に弱まり、父のためホームヘルパーが入るようになった。
ホームヘルパーと分担して本人は父の介護をする。
一緒に連れ立って散歩する姿も見かけられる。
父が生存中に家で父のホームヘルパーと接したことがその後生きてくる。

47歳時、高齢の父死亡(81歳)。
一人となる。
ショック強く、不眠、食欲不振で頭部に転倒のため挫傷を負って、朦朧とした状態+酒臭で来院する。
当院のケースワーカーや作業所の職員の援助で回復。
その後、発足したばかりの精神障害者ホームヘルパー制度を活用し、ホームヘルパーが入って週2回の食事援助が始まる。
当初は、来院時にカレーの匂いがして、大量に作ってもらって冷蔵庫に保存してあるカレーを毎日食べていると言っていたが、現在は食材は多様となっている。

48歳。
行方不明の兄が、市会議員、弁護士共に父の病床で手に入れたと思われる遺言状を持って登場し、遺産を要求。
本人は偽物だと言っていたが、本人につけた弁護士によると遺言状も兄も本物に間違いないようで、その後協議成立。
生涯生活できる家等の資産は確保できた。

49歳。
雨の日に滑って骨折。
B総合病院整形外科入院。
B病院のケースワーカーがよく世話をして順調に回復。
入院中に松葉杖をついて挨拶に来られる。
10月7日退院

1 サポートのないまま、治療開始まで16年かかり、兄家出等家族崩壊に近い所までに至るも、信仰の力もあり、父母は諦めなかった。

2 信仰仲間のA医師で始めて治療始まり、それ以降、父母は素晴らしい力を発揮する。
本人もそれに応え、愛情を持って父母の亡くなるまで介護される。
父母共にベストを尽くしての生涯であった。

3 その後、様々なエピソードを通過するも、現在の本人の幸福は、当初父が創設に尽力した支援する地域のネットワークができてきたことが大きい。
その後毎年1度はトラブルあるもヘルパーの援助と医療で回復!大量飲酒が続き、56歳夏、アルコール性肝硬変となり湘南中央病院内科入院。
回復し、その後は断酒生活をつづけている。
但し飲酒再発の危険はあり。
今は高齢の愛犬チビスケとあそびながら週2日のヘルパーの食事づくりの日を楽しみ、調理をしているヘルパーさんとの会話を楽しんでいる。
この2人のヘルパーさんは本人の心身の状態をみてつかんでいて、年に1~2度は本人衰弱時に本人の診療に同伴している。
対人関係は、ヘルパーさん、月に1度のクリニックの診療とケースワーカーとの面談が中心であって、平穏な生活を続けておられる。

現在の投薬
①ジプレキサ 5mg
 アモバン 3.75mg
 リフレックス 15mg
 眠前
②タケプロンOD 30mg
 眠前

その後死に至るまで

 2012年12月14日顔色青黒くむくみ自力歩行不能で背負われて受診。直ちに救急車で湘南中央病院入院。アルコール性肝硬変で肝不全の状態。主治医のO先生によると断酒しない限り死ぬと告知される。

 2013年1月25日退院。その後本人は断酒を続け、庭に家庭菜園を作り、愛犬と一緒の平和な生活を秋まで続けていた。

 2013年10月1日火曜日、この日は午後5時より神奈川県藤沢市鵠沼海岸6丁目にある八部公園の会議室で、施設側職員と施設利用者の当事者、家族、および三吉クリニック・湘南中央病院スタッフの合同会議があり、私と広瀬ケースワーカーは午後4時30分に三吉クリニックを出た。残っていた三吉クリニック受付に、午後5時過ぎ、KさんのヘルパーNさんより「状態悪く、あす予約日だが、1人で行ける状態ではない。目が腫れている。頭痛を訴える。2時間しか眠れないので、強い薬が欲しいと言っている、飲酒の気配あり。」との連絡あり、これを聞いて三吉クリニックの受付Mさんが本人に電話を替わってもらい、救急車を呼んでいつも行っている湘南中央病院に行くように説得した。受付Mさんの説得で夕方救急車で湘南中央病院受診し、N院長の診察を受け点滴を受け自宅に帰った後連絡を断つ。ヘルパーNさんは、電話で湘南中央病院のMケースワーカーに状態の悪いことを話して、入院を依頼した後、愛犬チビスケを獣医さんに預けるため、別行動しており、Kさん単身での受診であった。湘南中央病院のMケースワーカーは、湘南中央病院のN院長が入院させるのは間違いないと思って、Mケースワーカー自身が勤務時間外だったので、ヘルパーNさんの話をN院長に伝えないまま、帰ってしまった。

 10月1日午後9時頃、Kさんの自宅から何かを叩いているらしいカンカンという音が、30分くらい閑静な住宅街に聞こえていたと近所の人が言っている。

 10月2日広瀬ケースワーカー自宅訪問。鍵が施錠してあり、警察官が立ち会い、消防署の救急隊がドアを開け、自宅に入ったところすでに死亡していた。N院長によると診察時しっかりしており、酒を飲んでいると言ったので飲まないように話し、点滴をして帰した由。病状を的確に伝える付き添いがいなかったこと。入院時主治医のO先生に連絡が取れなかったこと。アルコール依存症の連続飲酒発作は本人の意志で止めることは不可能で本人の同意による入院以外に止める方法はないこと。体力があるうちは飲めなくなって自力回復するのだか、アルコール肝硬変の末期になると、放置すると死に至る病なのである。
 湘南中央病院のMケースワーカーからの情報がないまま、このことは善意の内科医師N院長は知らなかった事でしょう。
 O先生は次に飲酒すると死に至ると本人にも私にも告げており、本人もよく分かっていたはずですが、2013年夏の猛暑の中で、誘惑に負け一杯飲むと気分よくなり止まらなくなってしまったのでしょう。

 Kさんの死因について、私はアルコール依存症の連続飲酒発作が起きて、既に肝硬変のKさんが肝不全を発症して、死亡したと考えたが、主治医O先生は別の意見であった。

1.2日前まで飲酒していないKさんが、連続飲酒発作に入ったとしても、3日目に死亡する事はありえない。

 肝不全では、経過はもっと長い。

2.Kさんが亡くなった当日は、意識障害もなく、足どりもしっかりしていた。

 診察当日はまだ肝不全は発症していず、死因は別の病気であったと推定される。

3.解剖しないと断定できないが、何らかの心疾患、おそらくは心筋梗塞が発症したのではあるまいか。

 入院したとしても、救えなかった可能性がある。

私の感想

 前日よりの激しい心筋梗塞の痛みのため、飲酒したのだろうか。

 自宅に帰って、その痛みの中で最期のヘルプのサインを何かを叩きながら出し続けて亡くなったのか。

 尚、救急車に乗る前にKさんがヘルパーNさんに頼んで、終生の友人愛犬チビスケを預けた獣医のO先生は、「15才の老犬、今さら飼う人はみつからないので私が引取りましょう。養育費出してもらうとありがたい。でなくても私が世話します。」と言いました。
 広瀬ケースワーカーがH弁護士にお願いして連絡途絶えたままの兄と交渉することになった。
 Kさんは亡くなるまで、診察の予約日、時間を違えることはなく、受け付けにもヘルパーさんにもいつも穏やかで、紳士的であった。
 Kさんの診察時の話題は、自分の現在についての不安や困ったことではなく、愛犬チビスケと自宅の菜園についての話題であり、野菜の作り方はうんちくを極めたもので、感心したものである。
 他の話題は、常に世界の中での人類の状況であった。
 診察のたびに、国際情勢を論じ、アメリカ合衆国や中国等、巨大国家の陰謀、策略、横暴を分析した。
 実によく勉強していると、感心したものである。
 彼がどこでそのような見識を持つに至ったか、残念ながら亡くなるまで聞く機会はなかった。
Kさん 2013年10月1日死亡 享年57歳 ご冥福をお祈りします。


症例③ YSさん 69歳 主婦 死亡年 1989年

診断
(当時)うつ状態、自律神経失調症→躁うつ病
(現在)双極2型障害

家族歴及び病歴
1984年9月湘南中央病院外科医長の紹介で同院精神科受診
主訴は食欲不振・味覚消失であった。
逗子の神経科医院より眠剤を送ってもらって1年間服用続けている。
初診は63歳。
69歳の夫がいるが年数回、主にフィリピンに出張し、殆ど家にはいない。
元気そのものの夫であった。
1人息子は結婚し別の町に住んでいる。
87歳の同じく元気そのものの実母と生活中。

 発病の誘因は、1973年より進行性の認知症となった義母を介護し、介護疲労で不眠となり体力もおちた旨。
義母はなくなったが、自分は3年前より眠剤を服用している。
状態は食欲低下、無気力、早朝覚醒とうつ状態の他に上半身の灼熱感や寒気の自律神経失調症を伴っていた。
薬も色々つかったがこの秋には、香蘇散、ドグマチールと少量の抗不安薬で軽快される。

1986年5月三吉クリニック開設と共に転院。
軽うつ状態のため抗うつ剤トリプタノール10mg追加する。
その後本人は鍼灸師に通ったり、ヨガをしたり、水泳をはじめ多少の波あるも元気で生活される。
途中軽いパーキンソン症状でて、シンメトレル追加し消失する。
夫は殆ど不在で実母と2人それなりに平穏ですごして、1988年秋には週4日プールで泳ぎ、週一回身体障害者施設にボランティアにいっている。
時々カゼをひく位であった。

異変がおきたのは1989年2月であった。
去年より株を始め、800万円は儲けたと、いかがわしい株のアドバイザーと交際している。

夫に相談するようにすすめ、投薬を変更する。
①桂枝加朮附湯 2.5g 1日3回
②デパス 1mg
 ロドピン 25mg
 リーマス 200mg
 ベゲタミンB 1錠
 ハルシオン 0.125mg
③シンメトレル 50mg 1日2回

息子嫁とも会って協力を要請する。
躁状態は約1ヶ月でおさまる。

同年4月22日突然夫が来院する。
夫は執拗に事情を聞いてくる。
妻が自分名義の株500万円を持っていた。
その他に150万円現金をつかっていたと。
うつ病あるので本人を責めないよう約束してもらう。
途中夫は大声をあげたり失礼な態度をとったので注意する。
愛情の乏しい、獰猛な夫であった。

4月26日 本人しょんぼりして来院。
夫に殴られた。
1週前ハサミで胸をついた。
今は死にたいとは思わないが、とんでもないことをした。
自分は悪人だと自責強い。
なぐさめる。

5月10日 おちこんでいると。
夫は500万円とり戻し、今は何もいわない。
代わりに実母から金を返せと責められている。
睡眠5時間、朝は憂鬱と。
母の怒りもそのうち収まるでしょうとなぐさめる。

②デパス 1mg
 アビリット 100mg
 リーマス 200mg
 ベゲタミンB 1錠
 レンドルミン 1錠
 1日1回 眠前
14日分投与する。
その後、電車にとびこみ自殺される。

(考察と反省)
うつ病より双極2型障害(大うつ病+軽躁病)に移行した。
軽躁状態の中で、株の売買をはじめ、怪しげな株アドバイザーの誘惑にのり、損失が出て夫と実母に責められて自殺。
直接の加害者は獰猛な夫と無知な実母であった。
元気だけが取り得の無知な母は最愛の1人娘を失ってしまった。
4月22日、夫来院時、危険な状況にあり、獰猛な夫が何をするか想像して、まず安全基地へ本人を避難させるべきであった。
とりあえず湘南中央病院内科に入院させて、本人のうつが回復するまでハリケーンをやりすごすことが必要であった。
そういうことなしに投薬を変更しても無効である。
主治医として、何をすれば、この危機を切り抜けられるのか、洞察を欠いていた。
今の私なら救えた症例である。


症例④ Sさん 現在48歳 女性

2006年11月初診
初診時所見
 強い悲しみ、悲観あり。
過去の失敗を繰り返し反芻し、強い罪責感を持ち、被罰感と自殺企図を考えている。
生の興味・喜び喪失し、早朝覚醒、食欲不振、体重減少等身体症状あって、
メランコリー型うつ病型に合致しており、ベックうつ病テスト37点と重度のうつ状態にある。
うつ病独特の罪責妄想による自殺の危険あり。

家族歴及び病歴
両親とも朝鮮系の中国人である。
同胞4子中の第4子。
上の3人は姉で、姉妹仲はよい。
本人に対し、色々援助を続けてきた。

父は2000年頃80才で亡くなり、母は本人20才の時脳卒中でなくなっている。
愛情をたっぷり受けて育ち生来活発な子供で、勉強も運動もいつもトップでないと気がすまなかった。
中国で国立大学卒業し、その大学の理系教官となる。

1989年の天安門事件で民主化を支持して、天安門広場に一緒に坐りこみした教え子の学生や同僚友人は、戦車にひき殺されたり歩行不能の障害者にされたりした。
(死者数千人といわれている。)
生来の運動神経とすばしこさを生かして危うく助かった本人も、パージされる。

中国人の夫、子供を残して日本にわたり、1993年日本で化粧品販売会社の社員となり、1996年同僚の社員と結婚し、日本国籍を取得するも、その夫とは別居し、転職する。
新しい職場で働き、そのアメリカ人社長が公私にわたる彼女の生活を支えていた。
順調であったが、中国文化と日本文化の倫理・道徳・価値観の違いとともに、研究者として挫折したという悩みが続く中で、その社長の女性関係で心労の末、重度のうつ状態となって、2006年11月三吉クリニック初診される。

通院服薬を続けるも自殺企図等起こして悪化し、郷里の中国で2007年1月より入院。
日本を行き来しながら中国では姉達の援助を受け、計7回の入退院を繰り返すも、躁うつの波激しく、農薬を飲んでの自殺企図等くりかえして改善せず、3年間休職のままだった会社を2008年11月退職。
長年別居のまま関係破綻していた夫とも2009年正式離婚し、三吉クリニックに再通院しながら韓国人のルームメイトがヘルパー役の援助を続け、就労不能の状態で2010年障害年金受給される。

その後も再発をくりかえし、激しい自殺企図で救命救急センターに運ばれて助かる。
そのような彼女が安定したのは、彼氏と別れた2012年になってからである。
食欲も増え、体重もふえ、散歩したり、サイクリングしたり、軽いアルバイトもされているが長続きせず。
外部ストレスに敏感となり3カ月に1回通院されているが、まだストレスに弱く、姪とルームメイトが、寝こんだ時の世話をしている。

そういう彼女も今年になり安定期に入り、日々平和な生活をされ、公営住宅の入居が決まって、生活も楽になると話されていた。

最終処方は
①ジプレキサ 10mg
 ラミクタール 200mg
 アモバン 10mg
       眠前
②レボトミン 25mg 1日1回夕食後

 この女性が生き続けられたのは、人間を信じる事のできる生れてより育まれた人間性豊かな資質と、お互いに助けあう中国北方朝鮮系民族の相互愛であろう。
彼女の生命力に脱帽せざるを得ない。
日本では危篤状態で救命救急センターに運ばれ、死んでもおかしくないのに奇跡を呼んだのである。
(本人の許可を得て、掲載した。)













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