ケーススタディ


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本人の手記

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ハル








 医療保護入院となった当日、私は三階にある自分の部屋で夕方まで寝ていました。鼻づまり感から目が覚め、二階のキッチンに水を飲みに行きました。キッチンで水を飲み終わった後、めまいを感じ、少しの間しゃがみこんでいました。私は、常にめまいや頭痛がある時、しゃがむ、または座って落ち着きを取るように対策をしていました。三階にある自分の部屋へ戻り、またベッドで寝始めました。その日は寒い日にもかかわらず、私は熱っぽく体が熱かったです。

 私が再度、ベッドの上で寝ていると突然ドアをノックする音が聞こえてドアが開きました。その瞬間、救急隊員二人が部屋に入ってきました。寝ていた時に突然、ドアをノックして返答もしていない、勝手に入って来た救急隊に戸惑いを感じていましたが、母親がいつも嘘をついて連れてくる保健所職員らと違い、「どうしましたかー。」と丁寧に話をかけてきました。私は体を起こして話しを始めようとしましたが、「大丈夫ですよ、寝たままで。」と言われた。私は腰痛もあり、横になった状態で救急隊に1.耳鼻科に通院している事2.耳鼻科で手術を受ける話があるが、両親からの同意や保険に入っていない事等を説明しました。救急隊員が私と話をしながら、体温と血圧を計ってくれていました。私は平熱が低いにもかかわらず、体温を計り終えた体温計を確認した時に平熱よりも高く示されていたため、「あ、やっぱり今日は体調が悪いのだ。」と自覚しました。救急隊員が「普段、通っている病院はありますか?」と聞いてきたので、「普段、通っている耳鼻科ではなく、そこではやっていない耳鼻科の手術を主治医と検討しています。」と答えて、その病院名をいつもと違う名前の説明をしました。その間、二人いた救急隊員のうちの一人が私の部屋から出て行きました。二階で母親、父親、そして救急隊員が話をしている声が自室のベッドで横になっている私の耳にも聞こえました。私の部屋に残って横に居た救急隊員が「どうする?病院に行く?」と問いただしてきたので、「せめて(もう服用をしていない)解熱剤や痛み止めだけでも」との思いから「手術を希望する病院へお願いします。」とお願いをした記憶があります。救急隊員から「じゃ、簡単に身支度をして」と言われ、私は下着姿から赤いトレーナーを着て、ジーパンを履いて、その上から防寒のジャケットをあおりました。視力が悪く、メガネが必要な私ですが、その日はめまいと頭痛からメガネをかけずに救急隊員の肩を借りて一階、自宅前に止まっている救急車に乗り込みました。私は、救急車の中に入るとすぐにベッドに横になり、安堵感からまた寝ました。

 自宅から病院に救急搬送をされている間、私は救急車のサイレン音で一度だけ目を覚ましました。それは、救急車が交差点で赤信号を通過する際にサイレン音を大きくし、救急隊員が拡声器を使って青信号を通過している車両に「救急車両、赤信号通過します。」との声でした。その拡声器を使った救急隊員の声で目が覚めると、なぜか横の同乗者席に母親がいました。今まで警察官や保健所職員ら多くを騙して来た母親は「(私が)保険に入っていないから、後で保険の手続きをするからね。」と言ってきました。私は母親の日常的な嘘に慣れていたので無視をしました。母親と話をすると事実ではなく、話が事実とは違う方向に展開されてしまうからです。

 寝ていた私は救急隊員の「病院に着きましたよ。」との掛け声、シャッターの閉まる音で目が覚めました。それと同時に救急車の裏ドアが開きました。寝ていた私は裏ドアが開き、そこから入ってくる蛍光灯の光で目が眩みました。救急車の車内が狭く、救急車から降りる際、足を躓いて転びそうになり、救急隊員が体を支えてくれました。救急車から降りると、紫色の服を着た人たちが、十人前後立って居ました。メガネをかけていなかった私はその方々が誰だったのか、について詳細に覚えていません。しかし、希望していた病院、そして普段通っている病院ではない事をすぐに把握しました。私が違和感を覚えると同時に、すぐに紫色の服を着た十人前後のうちの一人が「診察室はこちらですよ。」と大声で話しかけて来ました。ので、私は「はい。」と言い、指示通りの方向へ向かうと私の後ろから列を成すように紫色の服を着た方々がついて来ました。

 指示された診察室に入ると大柄でニヤニヤしている民事裁判で被告となった精神科医が椅子に座っていました。私は、すぐに私の座った席の背後から来る興奮気味の鼻息で背後に人の気配に気を感じました。精神科医は、明らかに今ままで通った耳鼻科の医師らとは違い、「真剣さ」等が感じられず、とても医師とは思えない態度でした。私は、耳鼻科的な疾患を説明しても理解が出来る知識を持っている医師とは思えませんでした。そこでその精神科医に「ここ何処?」と聞くと、笑いながら「精神科!」と私に言ってきました。「は?ふざけるな。こっちは耳鼻科に行く必要があるんだよ。」と言い、1.救急車に母親が同乗して病院に来た事、2.今まで母親が保健所職員、警察官らを騙して来た事、3.刑事事件の内偵捜査、民事事件の準備中であったため、「帰る!」と言い私が席を立つと、その精神科医は「おおっと、ちょっと待ったー。」と笑い、紫色の服を着て背後に立っていた男らに通路を塞がれました。被告K1は「ほら、席に座って、座って」と私に言いました。そして、

被告精神科医:名前は?
私:自分の名前
被告精神科医:生年月日は?
私:昭和57年7月25日、1981年
被告精神科医:普段飲んでいる薬は?
私:ボルタレン

と会話をした後、被告精神科医すでに出来上がっているカルテを確認していました。時間にして数秒間位でした。被告精神科医が、その出来上がっているカルテを確認している姿を見た私は、カルテに顔を近づけて、被告精神科医に「何、これ?」と言うと、被告精神科医は私の事を手で「シッシ」とやり、被告精神科医は突然後ろを向いて大きい注射器を持ち出し、蝶蝶の様な注射針を私に向けて「はい、手を出してー。」と笑いながら言い始めました。注射器の大きさ、中に入っている薬品の量が異常に多く、驚いた私は「何で手を出さないといけないんだよ!」と言うと、左後ろに立っていた紫色の服を着た男が突然、「先生の言う通りにすればいいんだよ!」と私に叱責し始めました。被告精神科医らの異常な行動に私が席を立とうとすると、真後ろに居た男が私の所に襲うように覆いかぶさってきました。それと同時に私の左後方に居た男が私の左腕を掴み始めました。突然、襲われた私は思わず「テメーら、何するんだよー!!!」と必死に抵抗をしていました。そうすると、被告精神科医は「ほーら、他の所にささっちゃうよー」とニヤニヤ、笑いながら私に言ってきました。私は必死に「(私が)騙されて連れて来られてんじゃねーか!」、「耳鼻科に行く必要があんだよ!」、そして「(救急搬送に同乗して来た母親の事に関して警察官らや保健所職員らに言う)あの母親が自作自演してんじゃねーか!」と訴えました。被告精神科医は、私が看護師らから襲われている間、終始笑顔で口先を尖らせて私から情報を集める様にし、注射を射す事をもてあそんでいるようでした。私の後ろから腕で首を絞めて抵抗出来ないようにしていた看護師が私の首を更に絞めるように「フーン」と力んだ際に出る声が聞こえ、私は「こいつら、マジだ。。。」と受け止めました。被告精神科医が適切な診察をせず、背後に居た紫色の服を着た男たちに突然襲い掛かられる。抵抗をしていた私は頭の中で警察官らが常に言っていた「(家族への事件化や今ままでの経緯などで)状況が状況だけに、どんな事があっても手を出したり、暴力はするなあ。」との言葉を頭に浮かべながら、「何か私の身に起これば証言をしてくれる多くの方々がいる。」と信じ、最後に「テメーら、まとめて覚えておけよ!」と言い放って看護師らへの抵抗を止め、身を委ねました。その当時、すでに複数の保健所や警察に両親からの被害などについて、事実確認の緊急連絡が取れる状況でしたが、被告精神科医ら被告医療法人社団Sの看護師らは、その時間さえ与えないほどの突然の短時間で襲って来る状況でした。

 まつ毛や腕が痙攣を起こし、激しいのどの渇き、首や腰の痛みで目が覚めました。目が覚めると、手足が拘束され、暗い個室に入れられている事に気がつきました。めまいや頭痛よりも、呼吸が上手く出来ず、とにかく激しいのどの渇きに襲われました。ドアのノックもなく、「ザー」っとドアのスライド音が聞こえると、光が右後ろから部屋に入って来ました。紫色の服を着た男が何かを私の口の中に入れました。この時、私はかなり意識が朦朧としていましたが、口に入れられた物と同時に水を上からかけられ、のどの渇きから抵抗が出来ず、与えられた物を飲まざるを得なかったです。水を上からかけられる様に与えられたので、上手く水を飲む事が出来ず、拘束されながら私はむせ続けました。この男は「黙ってろ!」と言いながら、個室の外へ出て行きました。隔離・拘束をされている状況から、私はめまいと頭痛、身体拘束が要因での腰や首の痛みを堪え、その疲れや失望感から気絶するように寝に入りました。

 後日、私は拘束が原因で腰と首の痛み、耳鼻科的なめまいと頭痛などの苦しみに耐え続けました。来た看護師らがやっている行為が明らかに違法で医療行為とは程遠い事をされている事に気がついていました。救急搬送で病院に来た際に被告精神科医とまともに話をせず、突然襲い掛かってきて拘束をしているからです。たとえ拘束されていても、私は体調の変化を実感していました。四六時中、激しいのどの渇きに襲われ、咳こむ回数が多く、胸や肺が苦しくなってきていました。

 のどの渇きで幾度となく目が覚めました。私は、意識が朦朧としていながらも今までに感じた事のない、めまい、頭痛、そして疲労感を感じ始めていました。私は、このめまいや頭痛が耳鼻科的な疾患が原因でない事を実感していました。身体を拘束されている時点で、私は終始抵抗をせず、落ち着いて自分の身に起きている事・発言内容を把握する事しか出来ませんでした。それとは対照的に、主にのどの渇きで苦しみ、首と腰の痛みをナース・コールで被害を訴えました。前日、私の背後から襲った男が私の隔離・拘束をされている個室に突然入って来ました。その男が言い放った言葉、「あー、うるさいなー。あまりうるさいと注射、チュッチュしちゃうよ!」や「お前みたいな奴の為に精神の科があるんだよ!」でした。医療保護の名目のもとで私は隔離・拘束をされていましたが、幾度となく母親を主として家族からの被害に関して警察に事実確認をするようにお願いをしました。また、隔離・拘束を解き、違法な入院措置を止めるようにお願いをしました。当時、私はすでに西新井警察の警察官らと綿密に話し合いをし、警察官らは母親の狂言癖や異常行動の事実確認が出来ていたからです。しかし、私の事を担当した看護師らが、耳を傾ける事はなかったです。

 隔離・拘束が原因の疲労感や苦痛が四六時中、日増しに増し続けました。以前、耳鼻科的なめまい、頭痛で手術が必要だった時の痛み対策を私は覚えていました。それは、1.痛み止めを飲む、または2.マイスリーを飲んで適切な時間(手術を受けられる時までの時間)まで待つ。以前に使用をした痛み止めのボルタレンでは、痛みを止められても、眠る事が出来ない事を知っていたので、私は看護師にマイスリーの投与をお願いしました。私の頭の中では、「(強い拘束で首と腰が痛く、)とにかく眠りに就きたい。。。。」という願いと、マイスリー以外の睡眠導入剤等を飲んだ事が無かった私は何か薬ですでに体調の異変で、何も受け入れる事が出来なかったです。

 ある時、私は被告精神科医や被告医療法人社団Sの看護師らと家族からの被害事実の会話をしても全く会話が成り立たない事に気がつきました。特に、被告精神科医は「病気だから」と首をかしげながら言い私の事実の話に耳を傾けず、私がその病気に関して具体的に説明を求めても、その説明が出来ない事を理解しました。被告精神科医が最後に私に言い放った言葉は「いいんだよ!」でした。私は、被告精神科医をあまり相手にせず、隔離・拘束をされながらも、他の医師や看護師らに使う言葉表現を変える事にしました。理由は、私が隔離・拘束をされている原因は1.看護師らに本当の事実を言っている事、2.本当の事を言わず、この人たちが思っている事に従えば隔離・拘束が解かれて、ここから出ることが出来る、と確信したからです。私が実行した言葉表現として、肯定的な表現ではなく、看護師らへ自問自答をしてもらう表現でした。具体的には、「あの人病気だから、俺は違うよ。一緒にしないで!」から「看護師さん的に俺ってどう?」「(被告精神科医が行った犯罪に加担している事に関して、)仕事楽しいですか?」です。ただ、被告精神科医が適切な診察をせず、羽交い絞めの指示を出して実行した看護師らに言葉表現を変えて自問自答させても無意味な事が分かりました。

 しかし、日増しに疲労感と失望感が増し、視覚が変になって来た事を実感していました。まるで脳ミソが二つか三つあるようで、クルクルと回っていました。このような経験は人生で初めてでした。もうこの時点でナース・コールが出来ない程、自分は衰弱をしていました。実行をしていたのは、左手の指を使って知覚神経で「ここでやられている事は忘れない!」という事でした。私が米国の留学時代に身に付けた体で物事を覚える手段です。私は、同じ過ちを繰り返す事が嫌で、自分で手を抓ったりして、それを忘れない、覚えようとする癖があります。受けた挫折などの経験を前へとポジティブに向ける性格です。

 ECTに関しては、隔離・拘束をされている個室からベッドに拘束されたままECTを受ける部屋まで連れて行かれ、その後に連れ戻されたのを最低3回、4回は覚えています。私は注射が嫌いです。注射を打たれる時、常に打たれる瞬間を確認していないとダメな体質です。

 医療機器が出す「ピコー、ピコー」っという音と私の左腕にひんやりとした物を塗られていた事から私は目を覚ましました。この時の記憶が鮮明にあり、たぶん初回か二回目のECTだったと思います。私は、ベッドに拘束されたままの状態でした。痛い首を右に向けると、私の右手は拘束されていました。すぐ目先には室内の壁がありました。首の痛みで部屋を全体的に見渡すことは出来ませんでした。ただ、部屋には被告精神科医以外に二人の看護師の姿しか見えませんでした。被告精神科医は、私の右腕を触っていました。その後、私がひんやりとした物を塗られている所を確認すると、被告精神科医が私の右腕を消毒して、また注射を打つ場所を探していました。私は鼻の疾患を治す為、何箇所かの病院で血液採取や手術を受けています。低血圧な私。多くの耳鼻科医や看護師が注射を打つ事に苦労していました。唯一、痛みを感じずに注射を受けられたのは、大きな大学病院だけでした。私は、「この男に注射が打てる訳がない。」と思いました。そして、被告精神科医は「はい、目を閉じてー。」と私に言ってきました。私は被告精神科医が右手に注射器を持っていたのを確認し、「あっ、注射を打たれる。。。」と思い、その注射が打たれる場所を凝視し続けました。被告精神科医の注射の打ち方や指先は、独特で印象的した。注射を打たれた私は、「スゥー」と意識を失いました。ECTを終えて個室へ戻った時、再び明確に意識が戻っていました。その時、私はまるで束ねた電流を投げられ、それを正面から受け取った様な体感をし、「ウヮー、ウヮー」と奇声を上げて叫んでいました。隔離されている室内は空調で涼しい。しかし、私の体内は燃え上がっている様に電流が流れ続け、呼吸が大きく乱れていました。意に反して乱れる私の体は縛られている拘束帯に食い込んでいました。乱れ続ける呼吸。私は「どうにかしなきゃ。」と思い、意図的に呼吸を止めては、整え、止めては、整え、やっと「フワァー、フワァー」との荒い呼吸から、整った呼吸である「フーウ」、「フーウ」と戻す事が出来ました。すでに、全身が汗だくになり、首を流れる汗に「どうすればいいのか。。。」と感じ、落ち着きを取り戻した時、まつ毛や指先などに行き場を失った電流が向かい、溜まっている様でした。自分の右手を見つめた時、震えていました。電流で痛い。でも、その痛みで手が震えている訳でもなく、もう自分の右手では無くなっていることに気が付きました。

 私の意識レベルが低下し、私は相当衰弱していました。私は抵抗をする、物事を訴える事もまともに出来ない精神状態まで陥っていたかもしれません。口から出せる声も相当小さくなっていました。朦朧とする意識の中、「サー」っとドアをスライドさせる音と共に無言で看護師らが私の隔離室へ入ってきました。私は、ベッドが揺らぎ、ベッドに拘束されたまま部屋から連れ出されました。隔離室から出る時、ドアにベッドがぶつかり、私は「またどこかへ連れて行かれている。。。」と自覚しました。私は、ECTについてなど一切の説明を受けていませんでした。朦朧とした意識の中で私は「どこに行くの?」と拘束されたベッドの上から廊下で男性看護師に質問をしていました。男性看護師は、「ECTをする」と返答をして来ました。何も聞いていない私。私は、「ご飯は?」と言うと、その男性看護師は淡々と「ECTだから無理。」とバッサリ。廊下には、直射日光が入り込み、その直射日光が仰向けに拘束されて移動される私の目にも入り込んできました。でも、私の目、身体はその直射日光に眩む、反応をする事はもうありませんでした。もう私の意識レベルは、本当に、本当に低下していました。

 移動式ベッドのローラーを固定する「カッチャ」という音から私は自分の意識を取り戻しました。私の呼吸が乱れていました。体ではなく、頭の中に電流が流れ続けているのがわかりました。指先、まつ毛など、どこどこの先端では、電流を部分的に感じていました。指先は少しだけ震えていました。体が熱い。でも、初期の様に体内で電流が流れている様には感じませんでした。私の体が電流に慣れたのではなく、むしろ私の体、知覚神経らは、何の痛みにも反応をしなくなっている状態でした。指先などに流れ溜まる電流。微かな意識。私は突然の痛みを小さな声で「ウウウ。。。。」と発しているのみでした。「ハァー、ハァー」と小さな声で乱れていた呼吸。私はその乱れた呼吸を整えました。「フー、フー」と。私の呼吸は、もう正常でなかったのは確かです。水泳で鍛え上げた肺活量。肺にも異変を感じていました。私の呼吸量は著しく低下していました。呼吸で口から肺に届く酸素量が正常値とは明らかに違う事を実感していました。肺に空洞が出来ているように感じていました。

 私は、朦朧とする意識の中、自分が何をされたかを問いただした事、やられた事態を把握しようとしました。私はECTの事を知らず、呼吸が乱れている中、看護師からECTについて「記憶が無くなるだけ」と普通に言われました。しかし、実際には被告医療法人社団・Sで行われているECTは人のすべての記憶を完全に取り除く事は出来ないと思いす。私の場合、記憶を失うのではなく、記憶がバラバラになりました。しかし、私はECT直後の看護師との会話によって、パズルのように自力で回想し、記憶を再生する事が可能でした。被告精神科医からECTについて説明を受けたのは、病院へ入院させられ、開放病棟へ移動させられた頃でした。それは、「記憶を失う」や「生死」についてではなく、「Sのオリジナルで頭がスッキリするからさ」のみでした。

 隔離・拘束をされ続けて衰弱し、朦朧とした意識の日々が続きました。自覚意識を取り戻すと、薄暗い部屋で女性看護師が拘束されている私の口元にスプーンでお粥を持ち運んでいました。いつ部屋に入ってきたのかは、わかりません。私は、「ご飯だ。。。食べなきゃ。」と思いながらも、衰弱、疲労をして少しだけしか口をあける事が出来ませんでした。口の中に入ったお粥が食道を通っていく事が分かりました。一日中、喉の渇きに苦しみ続けていました。たとえ、水でも口に入ると違和感や痛みを感じていました。何も出来ない。拘束をされ続けて口元にご飯が運ばれる。私は、朦朧としながらも自分自身が違う人間へとなりつつあり、それが植物人間へとされていくのがわかりました。

 隔離・拘束をされて朦朧としている時に、普通では考えられない事件に巻き込まれている事を自覚していました。ずっと隔離・拘束をされたまま。幾度となく警察署などで警察官らと話し合った事を思い出していました。平気な顔をして嘘の発言が出来る母親、家族。警察官らは、すでに事実確認を終えていました。「どんな事があっても手を出すなよ。警視庁が許可すれば、裁判に証人として出廷するから。」と言われ続けていました。騙されて連れて来られた精神病院。ただ単に「退院させて!」や「退院させて下さい。」と言っても、私の話を聞かない上から目線の看護師たちは「無理」や「まだだから!」と言い放って部屋を出て行ってしまう。ある日、部屋に来た女性看護師に隔離・拘束をされた状態で警察と話し合っていた家族について言いました。この病院に入れられて、初めて人、看護師とまともな話す事が出来た時した。今まで部屋に来た看護師らは、すべてマニュアルの仕事通りでした。人の話を聞かない。ただ仕事をこなす。この看護師へ「西新井警察署へ事実確認の為に連絡を取って欲しい。」と話を切り出したと思います。看護師と私は、会話のキャッチボールをしました。意識が朦朧として、暗い部屋でメガネをかけていない私。拘束されているベッドから少し距離があり、輪郭までは確認出来ませんでした。ただ、その看護師は、私に「本当なの?」と優しく質問をして、私が「本当だよ。」と返答した後、少し体が震えているように見えました。その後、「先生に確認して来る。」と言い、部屋を出ていたその看護師の後姿は今でも目に焼きつき、忘れる事が出来ません。

 ある時、私が隔離・拘束をされている状態で、白衣を着た医師が私のベッドの横にしゃがんで私と長い間、問診をしたのをよく覚えています。その医師は、私が妄想を伴う精神疾患ではなく、事実を話している事に気がついていた様子でした。理由として、その医師は前回、私が話をした事を確認するかのような口調で質問をしてきたからです。私がなぜ、このように鮮明に記憶が残っているかというと、その医師は被告精神科医と違い、私のベッドの横にしゃがんで長時間話をした事に隔離・拘束をされ続けて失望していた私が驚いたからです。また、メガネかコンタクトの眼鏡修正が必要な私でもはっきりと、その医師の輪郭を記憶できる程の距離から話をしました。私はその医師へいつもと同じ話・説明をしました:1.私は鼻炎などの頭痛やめまいが理由で救急車に乗って病院に来た事。2.すでに警察と話し合いがあり、私が嘘や妄想ではなく、事実を言っている事。ただし、私の心理・精神状態は、疲労感が強かったです。

 ある日、私が隔離・拘束をされている部屋に右後ろから光が入って来ると同時に、男性看護師が入ってきました。この看護師が私に「だいぶ症状が落ち着いたので、大部屋へ移る準備をしましょう。」と言って来ました。その時、私は「イラッ」としました。なぜなら、この看護師は私が救急搬送された当日に診察室で私の左後方に立ち、私の左手を掴んで被告精神科の犯行に加担した看護師だからです。私の内心は、「よく白々しくそんな事を言えるな。」でした。その看護師は、そう言いながら私の尿道に入っていたカテーテルを抜きました。カテーテルを抜く時、躊躇せずにカテーテルを抜かれて、あまりにも酷い痛みでした。「パツン」と強引に抜き取られる音が聞こえました。この時、私は自分が薄い入院服を一枚だけ身に着けている事を始めて知りました。

 その後、どれくらいの時間が経ったのかは覚えていません。その看護師が再び私が隔離されている個室へ来ました。私はふらつきながら大部屋へと移動しました。大部屋への廊下はそれほど長くはなかったですが、重く感じる頭、メガネをかけていなかったので上手く進路が確認出来ずに長く感じました。個室のドアをスライドして開けた左右には、大きく頑丈なドアがありました。それを開けてもらうと、正方形のような大きな広場のような場所があり、たくさんの人が居ました。私は開放感と状況把握に努めました。その中で一人、メガネをかけた細身で私よりも少し年齢が上の女性に話をかけました。その女性に「おねーさん、どうしてここに来たのですかー?」と聞くと、その女性は「私、うつ病なんだ。」と返答が来ました。私は「ふーん、いつ退院なのー?」と聞くと、「ここの病院って本当は、二階から三階の大部屋に移ってから退院らしいの。でも、三階の部屋がいっぱいだったから私、ここ(二階)に居るんだ。もうすぐ退院なの。」と言われ、私は初めて自分が二階の個室で隔離・拘束をされ、同じ階の大部屋へと移された事を知りました。私は、その女性がうつ病とはとても思えず、疑問に思いました。二階で知り合う方々の多くが、とても病人とは考えられない方々ばかりでした。それよりも、医療保護入院を乱用した被告精神科医の被害者の方々が多く存在する事実を確認しました。その日の夕方、テーブルで複数の女性数人と話をしていると、突然一人の中年女性が泣き出し孤立しました。私はその女性がなぜ泣き出したのか理由がわかりませんでした。その女性が突然泣き出した為、二階の大部屋の雰囲気が一気に変わりました。それよりも、私の興味は、1.私が救急搬送された際に診察室で被告精神科医の犯行に加担をした男性看護師らを割り出す事でした。彼らは、被告精神科医が私を診察していない事を知っての行為だからです。視力の悪い私は看護師に、「両親にメガネとタバコをお願いするようにして下さい。」と言った事を覚えています。私の場合、メガネ無しでは日常生活に問題が生じるからです。そして、こっそりと大部屋に居る女性看護師に「あれー、僕のところを抑えた看護師さんって何て名前でしたっけー?」と男性看護師らの名前を割り出そうとしました。しかし、私は二階にいる女性看護師らの口を簡単に割ることが出来ませんでした。上記のうつ病と診断されて入院していた女性が、知り合ってまもなく退院となりました。私は「せっかく知り合ったばかりなのにねー」と言いながら、その女性に電話番号を教えてもらいました。当時、その女性がどれ程の期間を病院で過ごしていたのかはわかりません。しかし、彼女から私は色々と貴重な話を聞きだす事が出来ました。それは、1.この階で看護師らに反抗的だと再度隔離・拘束される。具体的な例として、被告精神科医に医療保護入院として本人の意思に反して、強制入院させられた中年男性が、隔離・拘束から解かれて二階の大部屋に出た後「訴えてやる!」と言うと、そのまま何処かに連れて行かれた。2.病室から人が突然、消えて帰ってこなかった。等。私としては、「。。。。」でしたが、新しく知り合う看護師の方々には、(被告精神科医の犯罪行為による私の被害に関して)退院方法を聞き続けました。

 しかし、翌日、私は「症状が安定しているので、部屋移動をしましょう。」と言われ、三階へ移動させられました。二階からどの通路を使い、三階へ移動をしたのかは覚えていません。二階と三階の看護師は性格や対応が明らかに違いました。私は、退院方法を知る事で頭がいっぱいでしたが、それがわかりませんでした。ただ「退院をしたい。」と看護師らにはお願いし続けました。三階の大部屋に移動し、すぐにデイルームで入院されている多くの方々と知り合い、再び色々と被告精神科医の情報をいただきました。被告精神科医の被害者が多く、診察室で「制御」と称して救急搬送・外来で来た方々を押さえつける看護師らがほぼ同一の人物らだと言う事を知りました。三階に居た看護師らは、二階の看護師らと違い、平均年齢も若く、看護経験が浅くて簡単に機密を話してしまう看護師が多かったです。私は、「(私を羽交い絞めにした看護師らに関して、)彼らにお世話になった」様に振る舞うと、三階の看護師らから被告精神科医のほか、私を羽交い絞めにした看護師の名前が「H」、「T」、そして「Y」だという事を知りました。三階の看護師ら曰く、HとTはベテランの看護師であるという事も知りました。私は、被告精神科医の他に「この病院の看護師らも、被告精神科医同様に精神疾患を患っていないにも関わらず、医療保護入院を使って強制入院をさせている確信犯だ!」と確信しました。そこで私は、私の退院についてお願いを看護師らにしながら、被告精神科医らが行っている行為に対して、被害状況の情報収集を主に入院させられている方々や若い看護師らから得ました。もちいた手段として、話し手ではなく、聞き手になる事を実行しました。また、情報収集をするにあたり、ただ単に女性のみから情報を集めてしまうと情報が偏ってしまうので、私は男性、女性と拘り無く話しかけました。

 私は三階の大部屋に移動された後、被告精神科医と初めてまともに話をしました。他の入院している方々と話をしていると女性看護師が「K1先生の診察ですよー」と話をかけてきました。私は、退院の事だと思い、デイルームから狭い通路を歩き、テレビで出て来る小さな診察室のような病院関係者ならば誰しもが行き来できる場所へ行きました。そこに行くと、被告精神科医が椅子に座っていました。私がそこに着くと、被告精神科医は、笑いながら「おお、〇ちゃーん!!」と両手を広げ、ハグを求める仕草をして来ました。私は米国に留学をした事からハグに抵抗がなく、思わず調子に乗って被告精神科医とハグをしそうになりました。私は、そんな自分が悲しくなりました。

 被告精神科医と会話を始めました。私が、この病院に入れられて本当に初めてまともに被告精神科医と話をしました。言い換えると、私は救急搬送時、保護室で隔離・拘束をされていた時、被告精神科医とまったく話をしていません。私は被告精神科医と話を始めると、被告精神科医が私の入院以前の状況等に関してまったく理解をしていない事を確信、把握しました。私が不信に思ったのは、私が被告精神科医に耳鼻科的な話をしてもまったく理解が出来なかった事です。しかし、被告精神科医は、あたかも私の事に関してすべて知っているかの様に振る舞い、話し続けました。被告精神科医と会話が成り立つはずがなく、私が感じた正直な思いは、「話にならない。。。。」でした。そして、私が「じゃ、何で入院になったの?」と聞くと、「ボルタレンの飲み過ぎ!」や「統合失調症」と訳のわからない事を言い、被告精神科医は「ここにサインをして!」と説明も無く、私に言い始めました。私は「?」と思い、拒否をしました。理由は、1.長男や母親から書かされた念書や暴行事件についてすでに刑事介入をさせている事、2.その書かされた念書にある私の直筆が問題になっている事、3.印鑑が無い米国では、直筆のサインがすべてあり、直筆のサインをすると後で責任転嫁をさせられる事が明白である事、からです。メガネもかけず、説明も受けていない私は、「ヤダね。」と言いました。そうすると、被告精神科医は、口を尖らせて「出さないよ。」といじけた小声口調で言い、私に別紙を見せて来ました。書かれている文字が読めず、私がその紙に顔を近づけると、そこには「開放」、「制限」と文字が記載をされていました。私は「。。。。」でした。私は顔を上げ、被告精神科医の目を見ると、満面の笑みを浮かべていました。被告精神科医は、「ほら、いいんだよ。早く!」と言い、数枚の紙を私の前に出し、私のサインを求めて来ました。私は被告精神科医にサインを急かされながら、チラリと紙の日付を見ると記載されている日付けが書類によって違う。私が、その事に関して被告精神科医に質問をすると、「いいんだよ、単なる書類なんだから!」とニヤニヤしながら言い、私が拒絶の姿勢を示すと再度、「開放」、「制限」の紙を突きつけて来ました。私は、被告精神科医が医療保護入院を乱用した確信犯だと思っていた矢先に、任意入院までも隔離・拘束の書類を用いてさせる単なる犯罪者だと確信を得ました。被告精神科医は、私から書類にサインをさせると、それらを私から取り上げました。本人に渡さず、サインは取るが、書類は病院で管理をして退院出来ないようにしている意図が丸見えでした。被告精神科医は、「退院前の検査、検査」と言い、「CTの予約入れるからー。」と私に言い始めました。終始、私と被告精神科医の会話は成り立つ事がなかったです。私は、退院が出来ない事から常に失望感が過り続けました。

 MRIの検査時には、地下室へ行ったと思います。肌で感じる室内の温度が他の部屋や階とは違いました。再三、私は看護師らにメガネを得るようにお願いしましたが、それを聞き入れられる事はなかったです。それ故に、病院内の雰囲気などについて詳細には把握する事が出来ませんでした。明確に覚える事が出来たのは、私と会話をした看護師らの声です。

 三階の大部屋で他の女性に話しかけました。その女性が発した一言に私は驚きました。それは、「あー、蓄膿が痛い。」と。私は、自分が同じ蓄膿を持ち、痛みがあったにも関わらず、その痛みが感じなくなっていました。数日、数週間で痛みが取れるとは思っていなく、投与され続けた薬、自分がされた隔離・拘束、そしてECTの副作用などに関して、私は自分自身が非常に不安になりました。

 退院をしました。直前に被告精神科医らと話をしました。相変わらず、被告精神科医は私の事をすべて知り尽くしたかのように母親に話をしていました。被告精神科医は、平気で自分の思い込みや考えを発言出来る人だと痛感しました。どのように帰宅をしたのかは覚えていません。記憶を失ってしまった事は明らかでした。退院した日から処方された薬を止めました。私は、被害妄想ではなく、事実を主張し、薬物中毒等を患っていないと自覚していたからです。しかし、薬を止めた日から体調に異変が起こりました。脳ミソが六個位、クルクルと回り続けていました。自覚出来る自分の本当の脳ミソもありました。他の脳ミソを選ぶと、あたかも自分ではない気がし、突発的になりそうになりました。意に反して、ヨダレが垂れているのを洗面台の鏡で自分の顔を見た時にわかりました。顔色は、どす黒く、まるで今までの自分の顔色とは程遠く、非常にショック状態に陥りました。夜は、隔離・拘束の回想・フラッシュバックでうなされ続け、苦しみました。現在もかもしれません。自宅でも、隔離・拘束された苦痛は忘れる事無く、寝ていても突然起き上がり、手で顔を触ると発汗状態などの日々が続きました。














ケーススタディ